日本の耐久年数

日本の耐久年数

ちょっと時間がすぎた話ですが。
先日の中央道の笹子トンネルの事故のニュースを見ていて思ったことですが、物理的に検査をしていなかったことが問題となっていますが、もしかしたら、日本全体として、日本人も含めて耐久年数がきているんじゃないかな?って思ったりしたわけです。

以下、勝手な想像で書きます。

多分道路公団的には「まぁ大丈夫だろう」と思っていたんでしょう。で大丈夫だったわけです。その日までは。原発も「きっと大丈夫だろう」と思っていたわけです。その日までは。
例にあげた二つは、施設の話です。実際耐久年数や施設の強度の話もあったんだろうけど、どちらかと言うと人的ミスな訳です。(詳しくは知らないので、「人的ミスだったんだろうと思います。」)

この人的ミスって、実はちょっとした事の積み重ねではないかな?と思うわけです。

豊かな時代になるに連れ、少々荒っぽく使っても壊れないものが増え、たとえ壊れても簡単に代わりのものが手に入る。こうなってくると人への感謝なんてものた当然減ってくる。だって作った人の顔がわからないものなんだもん。誰にありがとうって言えば良いの?って話です。

ありがとうの精神がなくなってくると、人への段々我慢できなくなります。何でも手に入って当たり前。

もしかしたらそれでも成り立っていたのが今までの日本で、なんで成り立っていたかって言うと、それまでの蓄えがあったんです。今までの日本人が「ありがとう」っていった数だけ蓄積される何かがあって、それが日本人の心に余裕とかを与えていたわけです。その余裕が「ちゃんとした仕事」につながり、それがネジ一本一本をしっかり止めていたんです。

しかし、貯蓄は切り崩され「まぁいいか」じゃ済まなくなってきたのが現状です。年金問題だって全部一緒。

僕らは多分耐久年数の過ぎた国に生きているんだと思います。

という事は少なくともマイナス進行するような生活、余裕ぶっこいて怠けるような生活はできないはずです。

考えようによってはまだやり方はあるでしょう。
今ある無駄を省くのも一つの方法だし、新しい技術で賄って行くのも方法です。

僕は技術の発展を止めてはいけないと思っています。人間として生まれてきた意味って、結構そこに凝縮されていると思います。
失敗も沢山するでしょう。
戦争という失敗も2011年から続く失敗も、次にいかさないと意味がありません。

僕らの未来がどういう世界になるのが良いか。それがこの多様性の時代において、考えを一つにするには非常に難しいです。
それでも一人一人は思考を止めてはいけないし、できる限り自分の考えを発信することが大事です。
(ネットで発信するとかいう意味ではないですよ。)

僕はやっぱり、今一度「一人で生きているんじゃないんだよ」って認識をもつ必要があると思います。
例え伝わりづらくても。

そうやることで耐久年数がV字回復すると思っています。

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