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楽しむことを忘れずに

困難なことがあったとき視野が狭くなることが多々あるけど、そういうときにこそ目の前の問題を楽しむぐらいの気持ちがあったほうが良い。

では楽しむってなんなのか?
楽しむという行為は体力がいる。体力は脳の隙間を作る源である。
困難を目の前にしたときに人の脳はその問題解決のためにフル回転するんだと思う。
しかしそのときに問題なのが、問題の側面しか見ることができなくなる。
そうなると一つの考えに固執する。ますます問題解決が困難になる。

だからいかなるときも脳に隙間を与えたい。
脳の能力は体力と深い関係がある。
問題解決にはどうしても体力が必要だが、人間がその時にもっているエネルギーは限りがあるため、そちらに力を使い切ってしまってはどうにもらない。

よって体力を鍛える必要がある。

もう一つ。限りあるエネルギーを効率的に使うために、心を鍛える必要がある。
いついかなるときも隙間を作っておくために、日々心を整える。

なにも全てにストイックにというわけではない。遊び心はストイックとは逆にあるが、これもまた必要なことである。

結局人は心と身体、楽しみと苦しみなど、実はすべてのものが深く関係しあって生きている。

生きるということはこれらを成長させることであり、そしてそれはとても楽しい人間的生き方なのである。

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自分への決めつけについて

決めつけといったら他人に対してとか、自分から外へを連想しがちではあるが、自分に対しての決めつけも重要な問題だと思う。

例えば私事だが、記憶力が悪いと言う決めつけをしている。
これは逆説的に他のことは得意だと思っているにすぎない。

もちろん他のことができると思うことは悪いわけではないが、苦手としていることが果たして本当に苦手なのかを考えてみると、実はそうではない。

苦手なことをよく考えてみると、そのことについてよく考えないからそうなっているわけで、これは逆説的に自分が得意だと思っていることも実はそんなに得意なわけではないと言うことである。

どういうことかというと、苦手だと思っていることは、かならず得意と思っていることの裏にあるわけで、実はその得意と思っていることは苦手と思っていることができていないと得意にはならないからである。

では、自分はだめだなーと思うのは尚早で、得意と思っていることから逆算してみると案外苦手を克服できる事があるのではないか?というのが最近の考えだ。

苦手なことは言い換えると余り好きなことではないことなんだが、嫌いなことを理解することで好きなことをもっと理解できるということにもつながる。

不得手を克服するには、最終的には努力するしかなく、やはり人は努力の生き物なのではないか。

本日も頑張ろうと思う。

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ソーシャルメディアについて

vineが終了らしいですね。

現在facebook、twitter、instagramなどのソーシャルメディアを使っていますが、以前と使い方が変わってきています。

まずfacebookですが、基本的に他の人の情報は追いかけません。
自分のことを少しだけアップするだけ。
たまーに、その人の現況はどうなんだろ?って感じで見てみるだけで。
あまり人の行動を気にしなくなったのかなと思います。

人の行動を気にするって、結局何かに追われている感があるんですよね。
それにそろそろ疲れてきたんで。

twitterは基本的にサッカーの情報を入手するのに使っています。
あとは、特定のネット著名人の情報を入れる。
でもこのネット著名人の情報ってやっぱり偏っているなって感じるんですよ。
ネットを良く見ていた時はこれがマジョリティーだなって思っていたし、同意できるような気がしていたんですが、必ずしもそうではないって思うのは、現在の生活環境も関係するかもしれませんが確かだと思います。

最後にinstagramですがこれが一番良いですね。
単純に写真を中心として。
視覚に訴えるのはやはりわかりやすいし、なんとなく軽いし。

重い情報はいらない=他の人も僕が思う重い情報はSNSではいらないわけです。

ってことは、考えていることはblogにでも書いておけば良いかなって思って、回帰しているってのが現状です。

一番ハードに使っているのはfacebookですが、もう別にそんなにつながる必要性ないんじゃないかな?
もちろんSNSの良い面はありますしが、もっと直接会うとかを大事にしたいと思う次第です。

ってことで、今日も「集中」します。

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自分なりに考えるということ

理解すること

理解とは何か。
まずは事象をしっかり確認して、認識することである。
それが何なのか?
なにが起こっているのか。
わかっていることは何か。
わかっていないことは何か。

そこを整理する。

知識

わかっていないことについては、知識に頼るしかない。
知識の中でわかっていないことを補い、補充する。
するとわかっていないことが少し見えてくる。

ここで言う知識というのは一般的に正しいと思われることである。
理論だったり、公式だったり、法則だったり。

類推・証明

上記知識をつかって、類推する。
事象が証明されることで、また一つの知識となる。

応用

上記では解決できない問題がある。
この時は再度繰り返し上記した方法を繰り返し、試みる。

まだ不完全な気もするが、なんとなく流れとしてはこんなことかな?と思う。
また追加する。

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2016年10月25日 日々雑感

さて、いつの日か以来にblogを書いてみようと思ったら、サーバー側のip変わってて、ネームサーバーの設定がちがってたから、見られない状況でした。
ってことで、修正して今に至ります。

毛筆を始めたんだ

最近は毎朝、墨をすり半紙に毛筆で毎日の目標を書くことにしている。
理由は二つあって、一つは精神統一。
決してそれをやったからと言ってずっと精神が統一されているわけでもなんでもないんだが、一日にそういう時間をちゃんとつくるってなかなか難しくて。
何かの行為とセットにすることで続くかな?って思ったんだけど、結構成功かなって思っています。

もう一つは、最近とても弱っているなって思っている、空間認識能力を鍛えるため。
若い時はある程度脳のメモリーがあったからか、力技でいろんなことを処理していたんだよね。
でもここに関しては年齢を重ねて衰えを感じています。
力技でやっていたから、字とかも適当に書く癖がついているんだけど、そうなるとあとでどこに書いたかわからなくなったりするんだよね。
これ結構困る。
整理しながら物事を進めていくためには、最初に空間を認識する必要があるんだって、この歳になってわかったんだ。
これは、部屋とか机の片付けにも役立っていて、少しだけ生活改善がなされている気がする。

ま、まだ始めたばかりなので、どれくらい効果があるかはわかってないんだけど、少なくとも毎日書かないと気持ち悪くはなっているから、ひとまず成功かなと思っています。

同しようもないことをどう捉えるか

ほんと、僕らの力ではどうにもならないことがあるのは確からしい。
僕らの力でどうにかなることがあるのも同様に確からしい。

そこで、どうにかならないことをいつまでも考えていてもしょうがない。そう、どうにかなることに対して力を注いだほうがよっぽど人生において有意義なわけだ。

さて、震災や事件などが頻繁に起こっているように見受けられます。
困ったもんだね。
病気で困っている人も沢山いるし、亡くなっていく人も沢山います。
もしかしたら防げるかもしれません、その逆も然り。
やれることをがあるなら、それに可能性を感じられるなら、それが自分の意思ならとことんやっても良いのではないかと思います。いや、やるべきでしょう。

自分の意思においてそれが違うと判断するなら、やらないという選択もあります。
やらに事は決して逃げではない。
きっとやらないと考えたときに、そのまた先の未来に可能性を感じたはずだから。
きっとその判断は、その時諦めたことを補ってくれるでしょう。

だから、悩んで悩み抜いて実行する、諦める、どちらもそんなに違いはないと思います。

音楽について

先日友人がセッションをするからっていうので、見てきました。
なかなか面白かったんですが、なにより「あー、音楽は聞いてよし、演奏してよし。」って思えたことが一番うれしかったです。

長い間ギターをほっぽりだして、少しだけギターなんて家になくて良いんじゃないか?って思っていたんですが、気持ちが変わりました。
やっぱり続けたいなと思ったし、再始動に向けていろいろ試したいことが頭に浮かびます。

不思議なことに、最近は以前は演奏したいと思わなかった類の音楽にとても興味があります。
はやくそういうのが実現できるようにしないとな。

そうそう、エンケンさんのライブを見てきました。
ちゃんと見るのって実は始めてだったんですよね。
力もらいました。

でもって

人はいくつになっても成長できるもんです。
明日も良い一日でありますように。

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ふと物悲しい気持ちになるって、ちょっと素敵じゃね?

夏がすぐそこっていうか、もう来ている気もするんだけど。

ここ最近バイクの調子が悪かったり、膝が痛かったりで少しやる気を無くしたり、それでいて友人にあってパワー貰ったりで、まぁプラマイゼロって所ですが。

今(夕方の18時半)の時間、外は少しくらくなり、暑さが残りつつ少しずつ涼しさを感じています。

部屋の電気をつけないと少し暗い気もしますが、もうちょっと暗くなるまで待ちたい気分です。

珍しくFishmansとか聞いていると、少し悲しい気持ちになります。
だからと言ってこの悲しさは生きるにおいてマイナスかというとそうでもなくて。
僕はもう十分大人と行っていい歳では有るんだけど、もっと生きたいなと思うわけです。

音楽はときに懐かしさとともに、もうそこには戻れないと言う感覚を呼び起こします。
そう、そこにはもうもどれないんです。戻れないって思うってことは少し戻りたい気持ちがあるんです。

そこをどう越えていくかっていうのはテーマであって、それを感じない事が正しいかと思っていましたが。
そう思うこともそれはそれで素敵だなって思えるって、そのことがまた素敵だなッて思うわけです。

思うようにいかないことばかりです。
一番大事なことは、僕の手の中からこぼれ落ちていて、ずっと拾えていないまんまです。

でもね、それってまだ希望が持てるってことだから、なにも落ち込むことなんてないだなって。

さっき調子の悪いバイクをちょっと調整してたら、少し調子が戻ったんです。
で、すこし走ってみると、今の季節がよく分かるんです。

ああ、今はこういう気候なんだって。

そんなことも含めて、風景を感じることは僕にとって音楽を感じるのとすごく似ているんです。
音楽を聞いて、少し物悲しくなるってのは、自分の感性がいい方向に向かっているって事。

ってことで、また音楽が楽しくなってきました。

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経験と学びについて考えた

あっという間に5月です。

最近また酵母を作ってパンを焼いているんだけど。
で、やっぱりやり方はネットで調べて、でうまくいかないとまた別の事例を見て。
で経験値が上がってくると自分のやり方を試しつつ失敗して。

何回も何回も作りなおしては食べ作りなおしては食べ。

ま、自分で作ってるから美味しいんだけどね。

で、まぁこれはたかだか(って言ったら語弊があるかもしれんが、)パン作りの話なんだけど。

昨日また山で遭難事故があったらしく、これは詳しい情報ではないけど、経験不足というか無知というか、そういったのが原因の一つみたいなことが書いてあって。

で。

今ネットでかなりの有用な情報があって、パン作りとかは命にかかわる話ではないからだけど、ある程度自分で失敗が許されるっていうか。
ま、それで自分の経験値を上げていくことができるんだけど。

じゃ、学び、特に人から直接学ぶってなんだろうって思って。

山登りで言うと、きっとネットだけで学べることなんてあまり役に立たないんじゃないかな?って思うわけです。
もちろん予備知識として知っておくに越したことはないだろうけど。

パン作りも山登りも、経験値って意味では失敗の繰り返しと、先人の知恵の恩恵をうけているわけだけど。
経験と学びって結構密接な関係にあって、学びには座学と実学があって。
どれも欠かせない要素なんだろうなって思うわけです。

思い切って聞いてしまうってのは決して間違っていないんだろうなと。もちろんなんでも聞いてたら、聞かれる方からしたら鬱陶しいだろうし、そもそも学ぶ気あるの?って思われるだろうけど。

もっともっといろんなことを学んでいきたいと思う今日このごろです。
サーフィンも誰かに教えてもらいたいなー。

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同意と信頼は違うんではないかと思った話

先日千葉にサーフィンに行ってきました。大学時代の友人と馬鹿な話をしながら波に揺られてとても気持ちよかったです。
前にも少し書いたと思うんだけど、その友人とは思想が結構違います。当然友人なので同じ部分も沢山有していますが。
でも僕は彼を信頼しています。

友人によるFacebookの投稿で少しクリアーになったんですが。
少し考えていたことなんだけど、意見はなかなかあわないものではないかな?と最近は考えています。
僕は絶対的に他人すべてを信じるなんてまだまだできないんですが、信頼している人でも意見はあわないことが多々あります。そんでもって意見が会わないことは普通であるし、それは大した問題では無いんじゃないかな?と思うわけです。
ここで言う意見っていうのは、その人を取り巻く現在の要因に左右されるわけで、利害が違う人間同士意見が合わないのは当たり前だし。
だからと言って信頼出来ないかというと全く別です。

僕は周りの大事な人たちを絶対的に信頼しています。いや、信頼できるように最近ようやくなってきたんだと思います。
意見の違いはちょっとしたことで、それは大概は時間が解決するものだと思いますし、いちいち言い負かすことの必要もないし、あえてその場で同意する必要もないかと。もちろん「なんで同意してくれないんだろう?」って思う時もあれば、ここはひとまず同意しておくべきだろうと言う瞬間はあります。大人の対応をするよう努力しています。

大人の対応が必要な時もあれば、しっかり反対することも時として必要でしょう。逆の立場の時もしかりです。
ただ、それは一時的な、限定的な瞬間の議論だったりするわけです。
僕にとってこういう時に便利なのが、「あーなるほど」の一言です。

前提として人は幸せを求めているはずですが、現在高度成長期なではないので、白物家電一式揃えて一戸建てを構えて、休日はうんちゃらなんてものを欲している人が大半ではないはずなんです。賃貸だっていいじゃない。
それでいて、いつの時代も大事なのは弱い人達を守ることだと思います。
そこで重要なのは過度の自分を弱い人側に持っていくことを避けることだと思っています。

自分が不幸だと思うかどうか。

決してこれが良い考えだとは思いませんし、他にももっといい方法はあると思いますが、比較することもありなのかと思います。
こうやって生きていけるだけで幸せだと思うことは、なかなか人生を豊かにしてくれるものです。

なかなか軸足をどこに据えるか難しいですが、目の前の事に、ある意味自分勝手に過ごす事が重要だと思うわけです。
迷惑はかけますが、いつかちゃんとこの迷惑を還元できればそれでよしかなと。

そんな日々を過ごしております。

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教育における詰め込みについて

最近文系がなくなるとか、偏差値教育がどうたらとか、まぁ昔からあった話ではあるがその手の話が活発化している気がする。ネットでよく見るのは「偏差値教育なくせ」的なところが大半だと思われる。
文系理系に関して言えば、よりビジネス最前線(と思われるところ)にいる人は、一部の大学を除いて所謂「専門学校化」の方が実益に即していると考えている意見が多く見られるような気がする。
その反面、案外所謂理系の研究者のほうが「文系的学問」の重要性を説いている気がする。
ま、どっちにしろ偏差値教育≒詰め込み教育に対する反発は多い気がする。

さて。

お前が言うな的なことを言わせてもらえば。
若い時期に「必死にものを覚える」という作業は、僕は絶対的に必要だと思っている。

僕は後悔している

いきり立って書いている割には、まずは自分の反省から書かせてもらう。
僕は第二回センター試験のときに高校3年生だった。ベビーブーマーで小中高と全部他の学年より1クラス多いと言う状況だった。大学に行くのは今よりは倍率は高かったかもしれないけど、多分今ほど競争は激化していなかったと思われる。

学校はのどかだった。真面目に勉強している奴らもいれば、とことん勉強しない奴もいて、それはそれでちゃんとバランスが取れていたと思う。もちろん僕は後者に属していた。
当然のように現役で受かるところとかなかったし、予備校勝負はほぼ決まっていた。
さて、じゃあ予備校行ったからといってそんなに勉強するかって言うと、浪人を経験した方はわかるだろうが、予備校っていうのはとことん誘惑の多いところで、結局勉強を始めるのは10月とか11月とか。結局現役生に対して大したアドバンテージを設けることもできず、ヤマ勘とかそういったもので乗り切るわけだ。

ま、ぶっちゃけ浪人しようがしまいがそんなことどうでも良いと思っている。もっと言えば大学がどこかなんてもっとどうでもいい。

僕が後悔していることは「必死に覚える」という作業を怠ってきたことだ。

やって来なかったことだから、ここからは仮説でしかないが、実はこの時期に「一生懸命覚える」という作業はとても重要だと思っている。

詰め込みの重要性

  1. トレーニングになる
    僕はこの高校受験から大学受験ぐらいまでの時期に「必死に覚える」という作業をやっておくことが、将来的に脳の忍耐力を鍛えると思っている。もちろん大人になってから覚えられないというわけではないけど効率が劣るのは確かだ。(僕は中学受験をしていないからそこはわかりません。)
  2. 貯金になる
    この時期に鍛えた力を大人になった時に貯金として持っているのと持っていないのでは差がでる。これはフィジカル的にも言えた事だろう。特に基礎力については覚えておかないといけないことが多いし、そして覚えておくことで使える能力が増える。数学の基礎的な言葉の意味であるとか、英単語などはこの時期に必死に覚えた方が絶対に良い。

そしてこれらは決して大学受験のために必要なわけではない。

論理的思考とか言うけれど

論理的思考力が云々と言うけれど、それはやはり基礎ができていての話であって、上っ面の記憶では化けの皮がすぐに剥がれる。(僕自身がまさにそうだ。)計算が解けてもその結果、証明を人に説明することが目的であるわけで、そのためには共通言語が必要だしとにかく基礎をしっかり勉強すると言う部分に関して言えばかなり記憶力、詰め込みに頼らざる負えないと思っている。
脳内の記憶は外部に保存できる時代が来るかもしれないし、シンギュラリティ問題もある。だからと言って、いやだからこそ人間はもっと知を扱うための知を身につけるべきだろう。

今の教育が良い悪いは僕にはわからない。また、詰め込む方法ももう少し良い方法があるだろう。(もしかしたら詰め込みという言葉が正しくないかもしれないですね。)
だけど、とにかく言えることは「必死に覚えるべきこと」があるし、それがないと今後困ることになるのは自明だ。
それがないと真実に辿りつけないし、その範囲はどんどん広がっている。

コモディティ化の中で

単純に偏差値という秤のなかにおいては、世界的に見て差は縮まっていくのは確実だ。範囲が広がっているということはそれだけ覚えないといけない。もちろん全部を覚えるのか、一部をとことん覚えるのかなど選択肢は多様だろう。
僕らが今後どうやって生きていくかと言うところにつながっていく話だけど。僕はやっぱり勉強を続けていける社会になってほしいと思う。ただ学んでいける社会ができても学びたいと思う人がいないと意味もないし、また逆も然りだ。それを続けていくためには体に染み付いた学びの姿勢が必要だし、それは何に起因するかというとやはり20代ぐらいまでの詰め込みは大きいはずだ。

ここまで書いたことは僕個人のことであって、もし自分も似ているって人がいたら今からでも遅くない。必死に覚えるとかそういったことに費やす時間を少しずつ作ってみるべきだろう。この歳で思うことだが、学びは楽しい。

最後に。

叔父がガンでやつれている時に僕にかけてくれた言葉を最後に。叔父は定年後最後まで大学に通っていた。

「おい、たく。勉強っていうのはいつまでもできるものだ。」
僕はその言葉を大事にする。

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ザ・ガッターズ「アンタのために俺たち歌うんだ」

以前紹介した博多のロックンロールバンド「ザ・ガッターズ」の二枚目アルバム「アンタのために俺たち歌うんだ」について書きたいと思う。
なぜって、それは書きたくなったから。

前作ではまだまだ彼ら自身のバックボーンをそのまま表現したに過ぎない(とは言いつつそれはむしろ素直にかっこいい)作品だったが、今作を聞いて正直ここまで成長するものなのかと驚きを抑えられずにいる。
私自身このバンドを見たことがないのでなんとも言えないが、今作は数多くのライブという「修羅場」をくぐってきた上で制作されたアルバムであることがジャケットを見ただけで伝わる。
そして何より、自分たちのバックボーンを昇華し自分たちの音に仕上げている。
もちろんオールドロックが好きな私としては、そのロックたちが持っている「かっこよさ」がないと聞く気にもなれないものだが、そんな期待を軽く裏切ってくれた。それも良い意味で。

前作と対比して書かせてもらうのが一番わかり易いが、以前なら「あ、バックボーンこれね」って思ったが、今作はそれが霞んで見えるだけだ。むしろ「俺たち博多のサラリーマンロックたい!」という意識が全面に出つつ、それがロックなんだよと言わんばかりの感情が爆発している。正直恐れいった。

  1. アンタのために俺たち歌うんだ
    オープニングを飾るのは、タイトル曲「アンタのために俺たち歌うんだ」。この曲に今作のコンセプト、意気込み、生き様、替え玉に対する執着心が現れていると言っても過言ではない。アップテンポなリズムから前作に比べてよりソリッドになった楽曲群とビビッドになった歌詞が飛び込んでくる。この曲に元気づけられる全博多区の人たちが羨ましい。
  2. トライ!
    さすがは東福岡、福岡高校、そして筑紫丘など次々にラグビーの名選手をを生み出す街のバンドである。ここでラグビー応援歌か!と思ったが、聞いてみると少し違った。ただの私の勘違いでもあるが、歌詞の冒頭「トライエブリバディ!」と言っているのははからずも「One for All, All for One.」の精神ではないか。ここは解釈の問題だが、私はやはりこれはラグビー応援歌に相応しいと感じている。福岡のラグビー協会におすすめしたい。
  3. 遅れてきた青春
    当然ロック好きな人なら見たであろう「さらば青春の光」。布袋寅さんじゃないぜ。当然ながら曲名から思い出すのはあの映画なのだが、実際聞いてみるとこれはむしろあの映画に対してのアンチテーゼなのではないだろうか?とすら感じる。失ったものなんてどうだって良いじゃないか。そんな意気込みが伝わってくる元気ソング。
  4. テイク・イット・イージー
    先日グレン・フライが亡くなったわけだが。この曲はイーグルスとは全く関係ない。個人的な話だが、実は僕はイーグルスが苦手だ。なんて言うだろう、西海岸のあの「平和!政治!」みたいな空気感がちょっと苦手だ。人がやる分には良いが、私は苦手だ。閑話休題。ガッターズと言うバンドは根本的に前向きだ。がむしゃらではない前向きだ。ギターソロで少し憂いがあるところが彼らなりのアイデンティティーでもあるのだろう。
  5. イッツ・マイ・ライフ
    個人的にはポーグスを思い出した。楽曲がとか歌詞がとかではない。もたらすイメージがどこか悲しげな匂いを放つ。アルバム内で唯一のスローナンバー。
  6. パッと行こう!
    昔西新JAJAというライブハウスで見た大阪のバンドにウルフルズと言うバンドがあった。大阪ならではのユニークさに当時衝撃を受けたものだが、博多にもこんな曲を演奏できるバンドがあるんだ!と少しうれしくなるナンバー。
  7. 爽快ロック
    爽快ロックという題名ではあるが、どちらかと言うと昔京都にいた「ローザ・ルクセンブルグ」というバンドを少し思い出す。当時は衝撃を受けたもんだが、博多にもこんな曲を演奏できるバンドがあるんだ!と少しうれしくなるナンバー。
  8. 夕焼け、キミを照らすとき
    ここに来てこのバンドの懐の深さを魅せつけられた。モジュレーションのかかったギターと曲が相まってスカっぽいリズムが心地よい。こうやって生きていくのも悪くはないさと思わせる、今の時代の皆に聞いてもらいたい一曲。
  9. 立ち上がれダイナソー
    昔ダイナソージュニアと言うバンドがあった。それは置いといて。アルバムも後半だというのを気づかせてくれる、少し哀愁の漂うアップテンポナンバー。個人的にはこのバンドにはこういう曲が栄える。まだ聞きたい、でも終わりは近づいている。それは人生においても同じこと。そうなメッセージが伝わってくる。しかしまたきっと戻ってくる。そんな心に染みる佳曲。
  10. Sun Flower
    昔静岡から長崎に引っ越した時に、僕ら家族は神戸からの海路を選んだ。その時に乗ったのがサンフラワーフェリーだった。あの時船上でかかっていたのが、眠れぬ夜 だった。小学1年生の僕はあの曲に寂しさとか期待とか、少し甘酸っぱいものを感じた。この楽曲が決して眠れぬ夜に似ているわけではない。ただ、同じ匂いがする。僕を掻き立てる何かがこの曲には確実にある。最後を締めくくるにふさわしい名曲。

次のアルバムに期待せざる負えない名盤ですね。
一度ライブを見てみたいものです。

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