例えば「殺す」って言葉を聞いて「えーこっちゃ!」と思う人はまずいないと思う。
「殺したい」についてもやっぱり「えーこっちゃ!」と思う人はそんなにいないだろう。
でも確実にその2つにおいて、人々が受け取る感覚に差がある。
「殺す」という意思をもった経験がある人はそんなにいないだろう。しかし「殺したい」という気持ちを少しでも抱いた経験がある人は一定数いるのではないか?
ちょっと選んだ言葉が極端すぎる気もするんだけど、言葉はそれ自体が持つイメージがまずある。
しかし、文脈の中でその言葉が使われた時に、果たして人々が持つイメージは同じかというと否だ。
言葉は独り歩きする。コンテクストを省いて独り歩きする。
これはとても怖いことで、「好き」「嫌い」だけが独り歩きすることで、人々が憎悪や悪意なりを抱かせる場合が多々ある。
人間の関係性は当然ながら複数でしか成立し得ないわけだが、片方の意見は残念ながらコンテクストとして正しいとは言えず「キーワード」が独り歩きする要因になる。伝言ゲームは不完全だ。
もちろん全文脈を理解しようと言う話ではない。やっぱり「殺す」という行為が良くないということは間違いない。
ただ、当事者でない人たちがそれにおいて、少ないキーワードのみでジャッジを下すことによる世論の形成はとても怖い。
そういう意味でメディアの責任は当然あるし、受け取り手においても試されている時代ではある。
情報を受け取っただけでストレスを受ける時代である。
SNSで気楽に発信、コメントできる今の時代、自分自身思うところがある。
どう考えても無駄なことに対してコメントしてしまうことがあるし、嫌な意見に対して「こいつをどうにか叩きのめしてやりたい」と思ったりしてしまう。
そういう時は、とにかく何も書かないことに決めている。
一つ目は嫌な相手に対して書くことのストレスを避けたい。
二つ目は相手の意見の本当のところは、実はわかっていないのではないか?ってこと。
ネットで意見を書くことは僕はいいことだと思っている。
時に拙い内容で書いてしまうこともあるだろうし、伝わりきらないこともあると思う。
ただ、自分自身においては建設的な意見交換をするという意志のもと書くべきだろう。
その気持を持ちうるぐらいの平和と自由を持っていたいし、それは相手への配慮でありキーワードのみに惑わされない日々の自分自身の思慮だと思う。