月別アーカイブ: 2013年11月

クリエイティブは、制約の中でこそ発揮すべき

物作りとかバンドやっていたりとかホームページ作ってたりとかしている人はわかりやすいですよね。「クリエイティブでありたい。」の気持ち。

でも、普通に新聞配達しようが、牛丼屋さんでアルバイトしようが、そこにはクリエイティビティって絶対あるわけだし、必要なことですよね。

効率化とかいう言葉を使ってしまうととてもそっけないけど。どうやって美しく盛り付けをして、お客さんに喜んでもらえるか?って、これまさにクリエイティブ以外のなんでもないですね。

さて、ところで。ここまで書いておいてなんですが。

クリエイティブであることに必要な要素ってなんだろう?って考えたわけです。そこでちょっと逆説的に考えたことを書きます。

自由さがクリエイティビティをもたらす?

自由にな発想をしたいとか思うことは良くあります。例えば上司さえいなければもっといい考えを世の中に提示できるのにとかもそうだし、金額的制約がなければもっととか。

もう少し小さい話で行くと、もう少しブロックがあれば素敵なお城が作れるのに!とか、もう少し絵の具の種類があればいい絵が描けるのにとか。

さて、果たしてそうでしょうか?
経験則から言うと、実は違います。
どういうことかと言うと。

制約がなくなるっていうのは選択肢が増えるってこと

選択肢が増えるってとても良いように見えますが、クリエイティビティという観点で行くとあまり良いことないと思います。あれこれ考えてしまってゴールにたどり着かないことが多い。途中で「あ、これも使えるな!」とか思ったり。
最終的に出来上がったものが面白くないか、ないしは出来上がらないかのどちらかでしょう。

実は制約がの話ではない

ここまで書いておいてなんだって話だけど、実は制約の話ではないんです。
最初のイメージ、そしてそれを実行しようとする強い意志などがあるかどうか?によって変わってきます。
最初のイメージがある人は選択肢が多くても適切に選べるし、間違っていても修正する能力があります。やり抜く意思も同様です。

ただ、やっぱり人間にそんなに賢かったり強かったりしない。
だから、最初にシンプルに考えたこと、現状でできることの中の資源を
最大限活用する方がいいわけです。

そして何より成果物を出すことが重要。一度だすと「ああ、まだこれができた。」と思うんですが、その思いはだいたいが「今ないこと」からではなく「今で来たこと」を前提に思いつくはずです。

だから、少しクリエイティブになろうとした時に、制約の中で作り上げていくという事は良い事だし、何より大切な事なんです。

そして一言に制約って言っても、案外その制約ってのは大きいものだよって事。
その中で考えられる事、やれることを磨く事がとても重要な能力がなんだろうなと思っています。

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うんこは愛される

さて、大人から子供まで大好きな話題って何だろうって考えるわけですが、やっぱり最終的にはうんこだなって思うわけです。

最近気づいたんですが、うんこって誰でもするんですよね。切っても切れない、キレの良いうんこはあっても人生からは切り離せない。

それでいて心より愛せるかと言うとそうではないけど、ちょっと愛おしい。それがうんこだ。

うんこの歴史

さて、うんこの歴史を学んでみようと思う、いや、思ったんだが。
現代において「調べる」という行為は「ググる」からスタートすると言っても過言ではない。
だから素直に「うんこの歴史」ってググったんだけど、あまり有効な資料が出てこなかった。
まさに検索リテラシーを試されているわけだ。
まぁいい。
もう少し自分の頭で考えてみよう。

うんことは

うんこって何?
ってことで手元にある「旺文社標準国語辞典(初版昭和40年11月10日)」の第八版(昭和50年)の新訂版で調べた結果は以下です。

「   」

そう、国語辞典には「うんこ」って載ってないのね。
手元に他の国語辞典がないからわからないけど。
こういう言葉は国語辞典には掲載されないのかも。
船を編むではどうだったんだろう?

うんこは載ってなくても類義語があるはずだ。
って事で「糞」を調べたら載ってた。

「体が栄養をとったあとの食べ物のかす。大便。」

なるほど、それがうんこの正体なんだなってことが40歳でわかった。
だけど、なんでこんなに人々に愛されるかが上の意味ではよくわからない。

と思って糞の他の意味を調べてみると

「自分を励ましたり、しくじった時にいう言葉」とある。

おー、なんか愛おしさが出てきた。

自分なりに考えてみる

結局さ、うんこってさ絶対的にいらないものの様に扱われるけど、自分自身から出てきたものだし、姿形色匂いが様々で、時にすごく魅力的な形で出てきたりして。
それでもって、その形状等で一喜一憂させてくれるんだよね。

自分を励ましてくれたり。
汚いと思っている反面、やはり愛情というか憎めないところが有るんだよね。

決して嫌われるだけの存在ではないことを皆知っているんだなと思うわけです。

って書いたけど、本当に愛されているのかは知らないし、愛おしいって言葉をうんこに使うのは正しいのかはわからんし。でもこの文章を読んでほっこりしてくれる人がいると嬉しいし、僕の友人の中の数人は「うんうん」と言ってくれる人がいるはず。顔が浮かぶ。

決して陽の目を見ることのないうんこを、僕は断固応援する。

散々書いておいて

なんか、うんこを辞書で調べたりして喜んでいるって小学生レベルだなーって思ったけど、それでいいと思う。

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秘密保護法案について少し考えてみた。

本日(2013年11月26日)午後にも衆院通過だそうです。

さて、秘密保護法案についてどれくらい知っているか?と自分に問うてみたら、案の定あまりわかっていませんでしたので。
勉強がてら書いてみます。

まずはザクッと「それって何よ?」

  • 国家保障上、著しく支障を与える情報(これを特定秘密と言うらしい)は保護しましょう
  • そういう情報を扱う人(または園周辺の人)は、国がしっかり適正評価等しましょう
  • そういう秘密をもらしちゃった人と漏らされちゃった人は、罰しましょう

ってのが今回の法案の趣旨みたいです。
上記だけ読んだらごもっともですね。

現在、僕ら日本人が思っているほど日本は安全な国ではなくなってきているというのは事実だと思います。
少なくとも隣国に脅威を感じつつ暮らしている。
問題自体は実はしょうもないないってことでも、それをきっかけに大げんかになることなんて、対国家であってもありうるんじゃないでしょうか?

って事で、結論から言うと、僕はこの法案は賛成です。

ちなみに僕自身は「なるべく隠し事のない世界が良い」と思っています。
理想ですね。
ただ、現実って違うよね、違うなら現実にあった方法で理想に近づけていこうねってスタンスです。

恐れている部分

パブリックコメントでは国民の8割が反対みたいですね。

  • 国民の知る権利が脅かされる
  • 秘密範囲が明確ではない
  • 行政の暴走・秘密化を進むんじゃないか

ってところでしょうか。
原発事故で起こっていることが国民に知らされないことで不利益を被るとか、そういうことでしょうね。
あとは、範囲が明確ではないから知らないうちに自分が犯罪者になるおそれがあるのと、プライバシー保護がされなくなるおそれがあるってところでしょうか。

前提である「国家保証」がキモなんですね

国家保障って言葉をどう捉えるか。
ちなみにこの法律をつくろうとしたきっかけが「尖閣諸島ビデオ映像流出」なんだそうですが。
確かにあれが「国民には秘密にしておきたかった事だ」って言われてもピントは来ませんよね。いいじゃん見せたって。そういう意味でこの法案設立に関してちょっとぴんとこないところもあるんですが。

さて、原発事故を例に取った時に、福島原発の影響が国家保証という枠に入るのか?
入るのであればとことん反発する人がいるでしょうね。
だって、知りたいし。本当は日本全体もすごい量の放射能汚染が進んでいるんですよって言うなら「そんなの秘密にすなや」って思いますよね。
だからそれって「国家保障」には含まれませんよね?って言えます。

って考えると国家保証として秘密にして置かなければ行けないことって、「国民が創造つかないこと」なんだと思うんです。
だから「国家が知らないうちに問題を解決してくれる内容」が秘密なわけで。

じゃ、国に任せてみませんか?って思うんです。法治国家なんだし、あんまりおかしいことがあったら日本弁護士連合会もちゃんとやってくれるでしょう。

ま、結局「国なんて信じられっかよ!」って言うのが前提にあるから問題になっているんですけどね。

そうなると国家ってなんだ?って話まで突き進まないといけなくなります。それはさすがに今考えるのは面倒ですし、むしろ今国家を超えて動き出している人がいるわけだから、どちらかと言うとそういう動きを応援するほうが民の力で官を動かすにはいいんじゃないかな?って思います。

最終的に僕は性善説を信じたいだけ

国家って最終的にやっぱり国民のことを考えて動いてくれるってことをどっかで信じたい気持ちがあるんです。
その為に選挙に行っているんだし。
個人で発信できる時代なんだし国民は力を持っていると思うわけです。そこまで馬鹿な事できないんじゃないかな?って思うし。
それに、いくら法案が通ったって、国が大事と思っていても国民からしたら大した事ない問題って漏れちゃうんじゃないかな?
罰せられる身になって少し考えてみましょう。
「ほほう、こんな情報があるんだ、へへ、リツイートアンドシェア!(リア充)」みたいなことで罰せられるんではないか?って言うのが不安がる要素ですよね。
果たしてそんなことが実際起こるのかな?ってことですよね。
瞬く間に情報が広がりますよ。その人達皆逮捕ですよ。
ありえんでしょ。
だから、日本には今、法律が変な方向に進もうとするときに対しての抑制力が働くと思っているんです。少し楽観的。

って書いてたら、既に衆院委で可決されましたね。

ま、それにしても、法律ってちゃんと読むのって大変だし、知らないことばっかりですよね。
それでも結構ちゃんと生きている日本人。

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羅生門を見たよ

実は黒澤映画って見たことなかったんですよね。
小津は好き(ってほどたくさんは見ていないけど)だけど、黒澤はねー、なんて勝手に思ってたんだけど。

TSUTAYA行って、適当に見たいの見つけてたんだけどあんまりピント来なくて。
じゃ、ここは巨匠でしょう!ってことで借りてきました。

芥川龍之介の羅生門とは違うのね

原作は芥川龍之介。名前は知っている。何を書いた人かはすぐに浮かばないという。。。
我ながら知識の無さにびっくりだけど。
でも原作は読んだことが有る気がする。
それぐらいの知識、いや、知識じゃなくて思い出。

なんとなく見てても原作を思い出せない。
確かにもんは出てきたよなーってぐらいの感じ。
あれ?俺は読んでいないのか?なんて思いながら見続ける。

どんな映画なのか?

黒澤映画の中でも評価の高い作品だが。
正直何の評価かはわからないってのが感想。
それぐらい僕には今感受性がないんだろう。

人として生きていく事ってなんだろう?って考えさせられる映画ではあるんだが。

でも、確かにそういう感想を持ってもいいなじゃないかな?って思うのは、冒頭に出てくる二人の会話。
「まったくわからんのだ。」

そう、全くわからんのよね。
何が正しいんだか、誰が正しいんだか。

ただ感想として言えるのは、人が生きる上でこういうことは起こるだろうってこと。
何が正しいとかそういうのを超えたところで悩んだりする必要もあるんだよね。

映像、役者など

wikipedia などを読んでみると、海外の映画に影響を与えた作品らしいけど。
現代の人が見ても、そんな小さい場面のことは映画作りしている人とかしかわからんのやないかな?って思うけど、確かに迫力と言うか、伝わるものはある。
あとは役者の持つ眼力みたなのもすごいなって思ったり。
ま、でも。今回はやっぱりあんまり良くわからない作品だったなーって言うのが正直なところ。

きっとちゃんと見るには、それなりの覚悟がいるんだなと。

で、羅生門読みなおしてみた

さっきKindleで羅生門読みなおしたけど。
そっか、やっぱり話自体は結構違うので。テーマは一緒かも。
僕は本の羅生門の方が好きかなー。

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【読了】現代の秘境は人間の”こころ”だ

NHKでやっている爆笑問題の番組の本だと思う。

なんとなく簡単に中沢新一読みたいなーって思って手にとった一冊。

大田は中沢新一が好きで、中沢新一は大田が好きなんだなと

このシリーズ何冊か読んで見たんだけど。
結構大田が、対談相手に突っかかるというか、少し相手を引き出すつもりかもしれないけど。
あまり相手を肯定しない感じで進んでいくんですね。
特に人文学とか哲学とかにおいては。ってのが僕が思ってる大田スタンスなんだけど。

中沢新一に関しては、共著があるぐらいだからか、どちらかと言うと聞き手に回っている感があって面白かったですね。

読んで思ったこと

爆笑問題のスタンスはいいとして、中沢新一が何をやろうとしているか?(ま、この本2007年の本なんだけど)がわかりやすく書かれているんだろうなと。
実際僕も、この人何やっている人なんだろう?って思ってたんですよね。正直。
一応チベットのモーツァルト とか読んでみたけど、実はスッキリしなかったんだよね。
でも、この本読んでなんとなくわかった気になった。
そんでもって、今後もなんとなくしかわからんだろうし、別にわからなくてもいいやって思った。
ただ、読んだら心動かされるからそれで良いかなって感じ。

宗教とか芸術とか哲学とか。人が作ってきたものは答えがないんだけど、きっとある程度皆がいいって思う組み合わせだとか、落とし所っていうか、まーそういうのがあるんだと思って、それを見つけることをしているんだってのが僕の解釈。

入門書的な読み方でいいんじゃないかな?と思います。

2つ気になった。

あ、気になったってのは、悪い意味じゃなくて。
アースダイバー
」と「ダウンズタウンプロジェクト」。
アースダイバーは、東京という街が縄文時代からもつ土地のパワーをそのまま引き継いでいるんだよって考え方。根拠はよくわからんけど。ま、ファンタジーでも良い、そういう考え方が有ることが面白いなと。

もう一つのダウンズタウンは、ダウン症の子どもたちの芸術村をつくろうというプロジェクト。
ダウン症の人たちって争いが嫌いなんだそうです。もちろん怒りがないわけではないらしいんだけど。
うまく説明できないからちょっと引用。

アトリエ・エレマン・プレザンは、ダウン症の人々の世界のとらえ方や感じ方を、ひとつの独自な価値をもつ「人類の思考」の一形態としてとらえ、「絵を描く」行為をとおして表現されたその思考に、未来への希望と可能性をみいだす活動をつづけてきました。アトリエ・エレマン・プレザンの活動をつき動かしてきた理念は、多くの点で芸術人類学研究所の抱いている理念と、驚くほどに深い共通性をしめしています。 

街(土地?)持っている力、人が持っている力。求めるべきもの、求めなくていいもの。
そもそもが持っている力、それぞれが持つ力。良いと思っていることと悪いと思っていることが変わってくる時代も来るかも。
そんなことを思いながら読んでみました。

たまにはこういう本も。

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堀江貴文「ゼロ」読了。とても気持ちの良い本だと思う。

僕はホリエモンって言う人のイメージをあまりもっていなかったんですよね。
特にひどいことを言っているわけでもないし、だからと言って万人に受けるような口調ではない。
だからと言って応援しているわけでもなく、でもtwitterとかはフォローして「面白いこと考えているなー。」とか。
あえて言うなら出来る人(堀江さん)からの視点で、それが当たり前だろ?って感じで話をする人だと思っていたんです。

で、読んで見ての結論として。
そういうパーソナリティーの部分はいい意味で失われていないけど、人間味が増すというか、本気度が伝わるというか。
堀江貴文という人間がどんだけ努力してきたのかということが伝わるだけでも凄く意味のある本でした。
結局やってますよね。そしてやってない人はそれなりですよね。という。

ま、パーソナリティーはそんなに変わっていないっていうのは、こういう動画見てみたらわかるかなw.

ただ、併せてこう言う動画も見てみると、本の内容が意味がよく分かるというか。

ただやってみたわけではなくて、継続しているところが凄い。

よく「東大入れるぐらい凄いんだから」みたいに書いている人もいるけど、結局そこに至るまでも努力をしているんですよね。
決して急に何かができる用になったわけではなくて。
一つ一つ多分、思ったらはじめて見た結果が今何でしょう。

誰だって(かわかんないけど)、大小あれど、何かに夢中になった事があるはずで、その中でも少しだけでも成功した事がきっとあって。
その出来る範囲で増やしていく気持ちをもとうって言うのがこの本の言いたいことなんだと思うんです。

自分に置き換えると、継続する力とかなくて。いや、取り掛かろうという気持ちとかも少なくて。
でもいい年齢になって、今更遅いかな?と思いつつも、次に進もうかなって思っていると事なんですが。
彼の言う方法が正しいってわけえはないんだと思うんです。この本でそんなことを言いたいんじゃなくて「良いじゃん。自分がいいって思うんだったらさ。」みたいなことの積み重ね(失敗も含めて)が、人類の成長、イノベーションを起こすんだって言いたいんだと思うんです。

良い社会作ろうぜ!って言う本なんですね。

彼の才能と言えば「探究心が豊富」で「それを行動に移せる」以外ないんじゃないか?

結局著者は、何事もまじめに真っ直ぐに取り組んだ、まずは取り組んで来たんだと思います。
で、岡田斗司夫との対談で、「やってダメなら諦めれば良いじゃん(損切りすればいいじゃん)」って言葉が出ますが、多分いろいろ経験したからこそ言える事何でしょう。
最初からどで損切りするべきかなんてわからなかったんだと思うわけです。
結局「一歩進めたか」って事を重視している。
で、一歩すすんだら、どうせ次の一歩があるからそれ頑張れって話なんですよね。
当然進んでいけば課題は多くなるし、責任とかも大きくなる。
ただ、そういう経験をしないと進まないし、進んだ先には仲間ができているって事を信じている。
そして、それを信じているからこそ本当に人が集まるんだってことなんだと。

誰もが「堀江貴文」になることなんて望んでいない

多分、結構人の可能性を信じている人なんだろうな?って思うんです。
自分の事が凄いなんて実は全然思っていないんじゃないかな?
ま、できないって思っている人からすると「いや、あんたは違うんだから」って言われるんだろうけど。

そして多様性を認める事も重要視していると思う。
自分ができないことも素直に認められる。

凄く人間味のある人なんだなーって思いました。

張り合うわけではないけど、僕も僕なりにまだまだ進んでいくべきだなって思わせる、良い本でした。

今日は三田祭(堀江貴文と茂木健一郎)でも見に行ってみようと思います。

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今度友人の結婚式で歌うんだが。

今までいろんな結婚式で歌ったり、やらかしたりしてきたんですが。

そろそろ友人の結婚式に出るのは終わりに近いんじゃないかな。

って事で、結婚式で歌う機会も少なくなるだろうってことで。
少しまじめに、どういう歌を歌うべきかを考えてみました。

何を求められているか

そもそも結婚式で歌って欲しいっていわれる場合に間違いやすいのが「感動させて欲しい」とか「笑かせて欲しい」とか言うのはあんまりないんじゃないかな?って事なんです。
あ、僕が頼まれる時に関してですよ。
時にはオリジナルを作って行ったり、時には派手な衣装を着て行ったり。
一番近いところでは、飲めないのに酒のんで皆に迷惑かけたり。
思い出してみると、求められている事とは遠いところでやってきたなーって言うのが正直なところです。

結果として楽しんでもらえた事もあったけど、引かれたこともあっただろうなと。

という感じで、そろそろ潮時だし、今回はちゃんとやりたいと思った次第です。

じゃ、何求められているの?ってことなんだけど。
僕は別に歌もギターも上手ではないのに余興をさせてもらえるってことは何なのか?

で、出した答えが「皆と一緒に祝って上げる雰囲気を作ること」なんだろなって。
だから、そこに注力することにします。

何ができるのか

で、何ができるのか?ってところなんだけど。
演奏するからにはベストを尽くすんだけど。
何ができるのか?って言うよりは「できないことはしない」の方が正しいかな。
あえて難しい事をしないで、来賓の方々と共に、一つの空気を作れるようなことをしたいと思うわけです。

そしたら、自ずとやるべき曲とかも見えてくるかなと。

って事で、いろいろ妄想中です。

その前に

そう、忘れてはいけないのが。
ずっと歌もギターも演奏していないことに気づきました。
最低限、まずはそこの練習から始めようって事で、まずはスタジオに行ってきます。

そしたらまた考えが変わるかなー。
ま、それはそれで良い。

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自分探しなんていつまでやってても終わらんよって話。

頭のなかでうだうだ考えていたんですが、書を捨てよ町へ出ようを実践する事にしました。

所詮は頭のなかだけで考えられることなんてちっぽけだよ

ここで言いたいのは考えるなって話ではない。
「考えるだけ」じゃだめってことね。
PDCAサイクルとか、仕事上ではいろいろ横文字並べたがるけど。

すごく簡単で、頭だけで考えていることを続ければ自分のことしか考えなくなるってこと。
体使って考えるとその感触から新しいアイデアも生まれる。

だから、悶々としたら散歩でもしてみれば良い。
環境を変えるだけでも良い。

何かを変えてみるってところから始めてみる。これに尽きる。
ただし、「(ちょっとだけでも、ほんのすこしだけでもいいから)前向きなこと。」であるのが望ましいだろう。

「ああ、面倒くさい」に勝ちたいんだ。

今更気づいたんだけど、僕はとっても面倒くさがり屋なんだ。
って書いて思ったけど、面倒くさがり屋ではないな。とても怖がりなんだ。
そして恥ずかしがり屋なんだって事に気づいたんだ。

実は人前で話すのとか、全然苦にならないって思っていたんだけど。
これちょっと違うなって思い始めたんだ。

どういうことかって言うと。
今まで人前で話すって言ったって、実は「誰に」話すかを決めないで話していたんだ。
人に話が届こうがどうでもよいって考えていたんだ。
だから別に何言ったっていいわけで。

でも、人前で話す機会って与えられた人しかないわけだし。
それはどうして与えられたかって考えると、実はとても重要な機会なわけで。
ってことは何かしら人に伝わるように努力しないといけないってことなんだ。

で、伝えたい気持ちが出てきた時に、本当の怖さとか恥ずかしさが出てくる。
そう、それには訓練がいるんだ。

って考えると、じゃあ自分が何もしてこなかったか?って言うと、あーやってたわ。
僕はステージに立って歌う練習はたくさんやった。
そう、恥ずかしさとか怖さを克服するために。

何事においても、やはり真正面から向き合うと、やらなければいけないことは自ずと見えてくる。
やんないといけないんだったら、楽しんでやってみたら良い。

人は環境に育てられる

上で書いた2つのことのまとめみたいな話なんだけど。

悩んでいる時ってだいたい自意識過剰で。
自意識過剰を開放することが重要。

そういう時は「いろいろ考えられないぐらい頑張らないといけないところに身をおく」とか、「いろいろ考えなくても頑張れることをやる」ことが良いと思うわけ。
で、その2つは対極にあるように見えるけど、結果実は大して変わらないんじゃないかな?って思うんです
って言うか、それに望むときの態度、気持ちの持って生き方のほうが大事ってことなんだけど。

前者はかなり後ろ向きな場合もあるよね。後者はかなり前向きに見える。

でもさ、結局どっちも楽しい事もあればきついこともあるんだよね。
最初がきついと楽しくなってきたらどんどん楽しくなるだろうし。最初前向きだと、壁が来た時キツイだろうし。
その繰り返しがどんどん大きいスパイラルみたいになって人は成長していくんだろうなって思うわけです。

って事で、変化を楽しもうと思う次第です。

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自分の考えを少し変えながら生きてみようかと思っています。

友人夫婦と話す事で自分の考えが少しまとまったので、久しぶりにブログに書いてみることにしました。

先日友人のライブを見に行ってきました。

見に行った理由は3つ。
一つは外に出たかった。外に出て外の空気を吸いたかった。
もう一つは音楽をやりたいと思って、その為に一歩外にでる必要があると思ったから。
もう一つはその友人に会いたかったから。

ライブは楽しいもんでした。勇気を貰ったし、思いがけず知り合いに出会ったり。
久しぶりに音楽って良いなって思ったわけです。

友人は大学が一緒なんですが、東京に来てから知り合ったんです。
とても優しく、しっかり物事を考えている。そして魅力的な彼には魅力的な奥さんがいる。
そんな二人とライブ後すこし打ち上げに参加させてもらいました。

それぞれが想いを話し、それぞれがなんとなくそれに対する考えを伝えあう。
友人夫妻は僕に「しっかり話を聞いてくれる」と言ってくれましたが、実は僕に一番欠けていると思う部分がそこだったので、びっくりしたりなど。
いろいろ指摘してくれて、それって自分で思っていることと違うなって思ったんですが。
日常生活の中で、仕事の中で。僕は人の意見をちゃんと聞けているだろうか、人を尊重できているのか?そんな事ばかり考えている時に、急に褒められたんです。
僕に対する魅力をいっぱい言ってくれたんです。

ここ数年、精神的引篭りをやっていたんです。
で、その悪影響かはわかりませんが僕は人を信じることを諦め始めていました。
いや、諦め始めたというより、いっそう諦めを強めたって言ったほうが正しいのかも。

でも、先日友人夫妻は僕の考えとは逆に褒めてくれた。

ふと思ったんです。
そっか、僕はその二人を信じているからこそこういう行動がとれているんじゃないか?と。
そして、どこかで僕は勝手に人を疑ったり、勝手に僕の中の数少ないカテゴリーに当てはめて判断しているんだなと。

でも、その時は逆に心のなかでそんなカテゴリーは存在しないんです。
このライブの1周間前に、友人と会いました。とても大切な友人です。
彼と話していてもそう、わざわざその人はどうだからなんて考えていない。
お互いがきっと尊敬できる状態にあるってことが大事なんだろうと思ったわけです。

僕はあまりにも人を信じないで生きてきたんだなーと。

で、思ったわけです。
結局、信じていない人から信じられるわけがないだろと。

信じるってなんだろうって考えると、なんかフニャッとしててわかんないんだけど。

とりあえずまずは、人を敬ってみるとか、言われたことに素直に従うとか。
そういう部分から人生再スタートしたいなって思っている次第です。

世の中バカだな~と思う上司がいたり、ダメだな~って思う友人がいたり、タバコのポイ捨てしてる人とかいるけど。それは事実としているんだけど。
でも、別にそれだけで人を判断したらバチ当たるよね。きっと。

僕が苦手だったのが、いろんなことを無視する力だったんだけど。そういうのも実は生きていく上で重要なことなんだろなって思い始めた今日このごろです。

最近おもしろかった記事は以下です。

http://www.asakyu.com/column/?id=925

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