月別アーカイブ: 2013年4月

やっぱり自分に正直に生きたいってことです。

昨夜妻と、これからの事をいろいろ話していて。
当然子育てとかの話にもなるんですが。

僕は子供に対してしかるときに「基準」が必要なんじゃないかな?って思っていて妻に相談してみました。
その基準はシンプルに「自分が嫌と思ったら叱る」。

一瞬妻も「え?」って顔していたんですが。それを説明しているうちに、なんとなく自分の生き方をいろいろ考えたので、ここに記しておきます。

基本はやっぱりシンプルに生きるってことなんですが。

自分が嫌なことが、「何故」嫌なのか?を考える

単純に子供にイラッてきたら叱るという意味ではないんです。そういう風に叱ってしまうことも多々あるのですが。
自分が嫌だな?って思った時に、なんでそれが嫌なのか?
しかるべき理由がちゃんとあるのか?を考えたいって話をしました。
シンプルに考えていて「他人に迷惑をかけることは嫌」なんですね。僕は。

息子がお店で大声を出したらなんで嫌なのか。
自分が恥ずかしいから叱るのはダメなんじゃないかな?って思うわけです。
他人の目が気になるから叱るわけではないんです。
それで叱ったら、息子は多分ぐれますね。僕が息子の立場なら納得しない。
僕は大声出すことがダメなんだとは思わなくて、そこの状況をちゃんと自分なりに判断してやって欲しいなって思っているんです。
大声出して失敗して怒られるのも良いだろうしね。

息子を叱るのは、自分を叱るのと一緒なんだなーって少し思いました。
彼を叱ったときは、自分も凄く悲しくなるなーって思いました。

自分にとってのスタンダードを作っていく作業だなーって思ったのと、息子は息子で自分のスタンダードを作っていくんだなって思ってます。

後ろ指さされてもも恥ずかしくないことをしよう

で、いろいろ自分たちの生活におけるスタンダードを考えていたんですが。
集団生活をしていると、瞬間的に後ろ指をされることが多いんですね。思ったより。
集団の中のルールがあって、(と言っても馬鹿げたルールが多いんですが。)それに異を唱えることは反対勢力とみなされる可能性がある。
でもですよ。自分のスタンダードをちゃんと持って接する、指摘する事が重要で、自分に間違いがないと信じられたら、別に後ろ指なんて勝手に指せよって話になるはずです。
ただ、指摘したことにおいて自分も後ろめたさがあると難しい。
だから、ちゃんと生きたいなって思う次第です。

長い目で見る事も大切

その瞬間良くても、後から悪くなったらそれは最終的に使った労力等を鑑みてマイナスだなってことは多いはずです。
農業なんてそうでしょう。
一時的に土地が肥えても、次の年から収穫が芳しくなかったらあまり意味が無い。
時にきつくても、少しだけ長い目で、俯瞰して物事を考えられるようになりたいものです。

と言いつつも、今を生きることが大事

ただ、あまり遠い未来のことばかり考えていても辛いんですよね。
だってわからないし、それが正しいか判断ができない。
ってことは、やっぱり今をちゃんと生きたほうがいい。
難しいことをしないで、今やるべきこと、部屋の掃除でもいいし、掃除までいかなくてもおやつの食べた袋をゴミ箱に捨てるからでいいんじゃないかなって思います。

スタンダードってなに?

結局のところ、ちゃんとした人付き合いと、そしてやっぱり学びかな?って思ったりはします。
物の通りを考えると、実は結構シンプルなんだろうなって思うわけです。

数学とか物理とか、普通に日常生活にとても役がたつし。
そういうことをしっかりやって行きたいなと思います。

別に聖人君子じゃないよ

ま、でもね。
別に糞真面目に生きようと思っているわけではなくて。
なんかシンプルに生きたいねって話をしてました。

考えていて、物事はとにかくオモテウラがあって、どちらが正しいなんてその瞬間毎に自分自身の価値観も変わったりするわけです。
ビール飲むのはリフレッシュできていいし、体には悪いし。

自分をどれだけ許せるか?って言うのもとっても重要かな?と思います。

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カッコーの巣の上でを見たんだ。

ずっと気になっていた映画。やっと先日見ることができた。

そもそものきっかけ

皆さんご存知でしょうか?福岡が誇る転載ミュージシャン「とんちピクルス」。
まぁ、知っている人が大半だと思いますのであまり説明はしませんが。

まだ僕が福岡にいる頃、とある飲み屋でのライブで初めて見ました。
その時にやっていたのが「かっこうドライブ」という曲で、無茶苦茶カッコ良かったんです。
で、とんちさんに「あの曲かっこいいです!」って言うと「カッコーの巣の上で」からサンプリングしているという話をしてくれました。

これは見てみないと!って思ってそれから10年以上経ってしまったんです。

あれ?明るい映画じゃないの?

最近はTSUTAYAによく行きます。
息子が「ウルトラマンメビウス」と「仮面ライダーカブト」にハマっているんです。
旧作100円だし、誕生日月だからまたその半額だしってことで、たまには自分のために借りようかな?ってことでふらふらって見てたんですが。
「あ、みたいと思ってたなー。」と目に入ってきた作品を手に取り、仮面ライダーとウルトラマン10枚に対してカッコーの巣の上で一枚をレンタル。

息子を寝かせつけてからポチッとスタート。

あれれ。なんかイメージと違うぞ。。。

そもそも僕が聞いた「かっこうドライブ」って曲は爽快だけどちょっと悲しげなナンバーだったんだけど。

この映画の内容はちょっと重かったのねー。舞台は精神病院
精神病院での主人公(もともと精神病を患っていたわけではない)はある意味やりたい放題。
でも、一つ一つに心がある。
でも、病院側に患者たちへの態度はなんか心がない感じ。

見ていると痛々しいなって思うばかり。

出る杭が打たれるぐらいならまだマシだ

結末は、「あーーー。」って感じなんだけど。
一つ思ったのは。
院内で起こっていたことは決して「精神病院」の中のことだけでなく、そしてこの映画が作られた時代だけの問題ではないこと。
そして、主人公のとった行動は、出る杭、病院側からしたら「邪魔」だったわけだけど。

何時の時代も、本当に正しい気持ちをもって行動する人が正しく受け入れられるとは限らないんだなーって。ちょっとしょんぼり。

ま、そんだけの映画じゃなないんだけどね。そこが気になった。

時間が経ったらもう一回見てみようかなって思った映画でした。

関係ないけどとんちピクルスの名曲。

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西荻散歩SCAPEってイベントを開催したんだ。

2013年4月13日に、西荻窪を舞台に「西荻散歩SCAPE」というイベントを開催した。
開催するまでの敬意とどんなイベントか?について書いておきます。

最初は漠然と「イベントをやる」事がメインだった。

主催は僕と、友人のnaokiokadaとで「なんか今まで自分たちがやっている活動をイベントにしてみたいね。」って言う雑談からスタート。
たまたま西荻のKISS CAFEの皆様とも「なんかできませんかね?」みたいな話をしていたのでまずは話を持って行くと、快諾いだだき場所を使わせてもらうことに。

ってことで「な~んとなく」ではあるけど、まずはイベントをやる!ってことでスタート。

何ができるか?

naokiokadaは音楽を作っていて、僕は地域でまちづくりやワークショップなどをやっていて。
それを足したらいいなじゃない?ってことで、そこからアイデアを出し合う。

会場は西荻のKISSCAFEなわけだし、西荻周辺でサウンドスケープという概念を上手に表現できないかな?って言う内容だったんだけど、僕らが特にそれについてスペシャリストってわけでもなかったんで、もっと軽い感じにしようってことで名前先行的に「散歩SCAPE」って名付ける。

ここでも軽い感じで企画作り。
何事も軽い感じでスタートしている事が、後で良い転び方と反省点を生み出す。

そもそも「散歩SCAPE」って何?

街の音、街の風景、街の息づかい。まぁなんでもいい。とにかく「街」をスマホで切り取ってきて、自分たちの言葉を付け加えた映像作品をみんなで作ろう!って言うイベントを目指すことにした。

反省点

本当に「あーこれは反省だ!」ってのは実はないんだけど。
でも「改善点」も込めて上げるといくつかある。

  • 思ったより散歩って時間がかかる
    実はプログラムをいろいろ考えていたんだけど、街歩きってとっても面白くって。途中から「これはただ歩いているだけでも全然楽しい!」って感じになってきたので、どんどん時間が過ぎたという側面がある。ただ、目的は映像作品をちゃんと作る!ってことだったので、もう少しそういう風に仕向けるというか、空気を作った方が良いのかな?って思った。
  • 思ったより音を録音するのは難しい
    サウンドスケープを基に考えていたので「音」を拾ってきたかったんだけど。皆と回っていると「写真」の方が楽しいし、なかなか音を拾うのは難しいなと感じた。結局僕が一人でずっと音を録音している状態。もっと「音」にこだわってやるのも面白いかもしれないな?って思った。
  • 機材が少なすぎた
    これは単純に編集作業の話だが、各自が映像作品を作ったんだけど、最終的に5人の映像を作るのでいっぱいいっぱいだった。パソコンがもっと必要だなっていうのは今後の大きな課題。
  • 誰を相手にイベントを開催するか?
    これは参加者に言われた事。何をやりたいのか?誰を対象とするのか?。
    確かに「参加型イベント」だから、それぞれの人にとって「これをやるんだ!」っていうのが見えたほうが嬉しいのかもな?とは思った。こちらとしては「街の音と風景を各々が切り取って、それを映像作品にする」ってだけで十分だろうと思っても、参加する側は「今日のお題はパン屋さん!」とかあったほうがいいのかもしれない。

    また、レベルも違ってくる。僕的には「良い作品を作る」と言うよりは「今まであんまりやったことない方法で自分を表現する」って感覚に近かったんだけど。もしかしたらそれでは物足りないって人もいるかもしれない。そこら辺のくくりは難しい所。

後は準備が遅れたり、告知が遅れたりなど。バタバタしてしまったのは大きな反省点。いろんな人に迷惑を書けました。
この場を借りてお詫びさせて頂きます。

いい意味で裏切られた作品たち

上の作品が、最終的な成果物。

各自が取ってきた写真をパソコンに取り込み、それぞれの感性で編集してもらう。
その映像を見ながら、naokiokadaがその場で音作り。

最後の作品を一つのファイルにまとめる。
そして上映。終了。

実は僕、作品見てて少し泣けてきたんです。
作品の良さもあるけど、今日皆で歩いた道が一つの作品になってそこにある。
皆がいい笑顔で作品を見ていたのも良かったなと。

途中で用事で帰った方の写真なども作品を作れればよかったんだけど。
それはまた今度。

新しい仲間もできて、第一回目としえは「まぁまぁ成功」って言っておこう。

また西荻でやりたいし、他の沿線でもやりたいな。

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鈴木先生を読んで思ったこと。

最近無料で読めたんで、「あー、じゃ~読んでみようかなー。」ぐらいだったんだけど。
ある意味衝撃。ある意味感動。

この物語が今の中学生を描いているとは思えなかったんです。

簡単に答えなんて出すなよ

出てくる人出てくる人、全員悩みを持っていて、それでいていろんな意見があるんだけど。
みんなそれぞれ答えを持っていたりするんだけど、それが議論だったり、単純に時間だったりが進むことで内面的に成熟していくのが話しの流れ。
僕の場合物語って自分を投影しながら読むんだけど。
悩みの解決方法が僕にとって心地よかったというか。
「簡単に答えを出すな」って手法が嬉しかった。

今時「これはこうだから」みたいな答えの出し方はできないはず。
仕事上で、すぐにジャッジしないといけない場面とかあるだろうけど。
もちろんそこでジャッジしてはいけないってわけではなくて。

ただ、そこにたどり着くまでに生きている中でどういうことを考えているか。
それが急にジャッジを求められた瞬間、露骨に出るんだろうなって思った。

今日もそんな事があって、自分の中で戸惑ったんだけど。
それで良いと思うわけ。

自分のブレない部分は、立場を置き換えてもブレない。

相手の立場にたって見るっていうのはとっても難しい事なんだよね。
だって相手にはなれないし。

そうなってくるとブレない部分っていうのは「誰がみてもそうだろう」って部分を持つことなんだと思うんだ。
相手がイヤって言っている時に嫌なことをしないってことではないかな。

仕事で頑張る場合、どうしても無理をいう場面って出てくる。
いわゆる条件を出す場合とかってそうなんだろうけど。

僕はそういう条件を後で出すのは嫌いだ。
だから僕は後から条件を出さない。
そのかわりに、無条件で引いたりしない。
それって失礼なわけだし。

って強く言えるのであれば嬉しいなって思う。(おい、どっちや?って話ですね。)

ブレない部分を作っていくためだけに生きているわけではないけど、そういう部分も大きいのではないかな?って思ったりする。

なんか知らないけど涙が出た。

で。
なんか最後らへん感動したんです。
今の社会ってホントごった煮で、ちょっと嫌なことが起こると四面楚歌っぽく感じてしまう。

いやね、そこまでひどくないんだよって思える社会がいいなって思う次第です。

真正面から取り組むことの難しさと、それに対して真摯に向き合うこと。

そうするしかないよねって話。

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40歳になりました。

柏井卓 40歳

柏井卓 40歳

誰に期待されるでもなく、毎年誕生日にブログを書くようになって早6年目。
今年もやって来ました。誕生日。

こんだけ続くと「去年なに書いたっけ?」って気になるけど、まずは読まずに書きますね。

流石に「おー、俺って大人(おっさん)!」って思う

ええ歳した大人ですよね。
でもやっぱり誰しもが思うんでしょうけど、「自分が思っていた40歳」ではないのは確かです。
相変わらず馬鹿ですよね。でも真面目です。
うんこは漏らしませんが、鼻くそはほじります。

他人からみたらそれでも歳相応に見えるはずだし、社会的な責任っていう曖昧なものも降り掛かってきます。
まぁ、社会的責任とか言われなくても、ちゃんと責任持って生きていこうという気持ちは以前からあるわけで。

ある意味節目なわけで、この節目って少し大事なのかな?って思ったのがちょっと新鮮。
今までは別に誕生日だからと言って「襟を正して」なんて気持ちもなく、祝ってくれる分には嬉しいけど、まそんだけって感じでした。

ただ今年はなんとなく違います。

毎年と言わず毎日悩みながら生きているんですが、少し吹っ切っても良いのかな?って思ってました。
で、今日思うんですが。
吹っ切ろうって思うわけです。ちょっと区切りっぽくチェンジしたい気持ちが湧いてきます。

まだまだ他人から見たらいろいろ言われます。影で言われているのもよく聞こえてきます。
「あー、勝手に言っておけよ。」って気持ちは変わらず持ってますが「ありがとうございます。」って気持ちも少しだけ持てるようになった。

素晴らしき40歳だなと思うわけです。

死について考える→生きるということも考える

平均寿命から考えるに、なんとなく半分なんだろうなって思います。ってか妻に言われました。
ここまで結構長かったっちゃー長かった。
あとこんだけ生きていく?って思うと、正直なげーって思うけど、80歳で死にたいかって言うと実はそうでもなくて。
長生きしたいもんです。

自分の死についてはまだまだ強くは思いませんが、両親については可能性として僕より先に死ぬでしょう。
妻の両親、妻の祖母なども然りです。

どうやってエンディングを迎えるか。エンディングって。。。

ま、少しずつ考え始めます。もちろん「はよ死んでくれ」なんて思っていませんよ。
ま、いろいろ考えるところはあります。

その一方で、子どもたちや、生まれてくる命の大切さを感じます。
僕はなにも年上の人達だけに生かされて、育てられてきたわけではなくて、子どもたちからも育てられているわけです。

生きるってなに?って考えをここに書き始めると長くなりますが。
最近読んだ「考える生き方」に書いてた(と思うんだ)けど、子孫を残すってのも、生きていく意味としては十分なのかな?って個人的には思うわけです。

子供を授かるというのは、誰でもができるわけではなく。望んでいても敵わない人もいるし、全く望まない人もいる。
ただせっかく授かった命は大事にしたいし、それが血が繋がっていようがいまいが、子供たちに明るい未来を残す?作る?のは大事だと思うわけです。

その未来ってどんなの?って言うのはまた今度。

大事にしたい事

ずっと去年から考えていることです。

まずは「敬意」。
これに尽きます。

そしてその敬意の上に「思考」「発信」「共有」があります。
まずは自分で考えること。考えて考えて。途中でいろんな人とか自然とかに耳を傾けながら、やっぱり自分で考えて。
そして発信してみてください。身近な人にでもいいと思います。世界に向かってブログ書いてもいいでしょう。
そして返ってきたことを含めて皆に共有してみてください。

人はまだまだ進化すると思っています。
僕は科学技術の発展を否定しません。自然が持つというか古来から続く素晴らしい生き方も素敵です。
双方の視点から見たら矛盾もあるでしょう。

上手く乗り越えていきたいもんです。
それには文化的な壁とかを乗り越えていかないといけません。
そしたらやっぱり、まずは敬意でしょう。
お前が言うなって思う人が沢山いるかもしれませんが、本気で思います。
だから、言って欲しいですね。「それって敬意はありますか?」

言われたら多分ショボンとしたり、ムキになったりしそうな自分がいます。
まだまだですね。

学ぶということ

学びたい。そう思う気持ちが日に日に高まっています。
もっと知りたい。もっと見たい。議論したい。
我ながら小さい頃に言われた「大人にになったら「勉強しておけば良かった」って思うよ。」というフレーズをそのまま受け継いで未来に投げ込むつもりですが。

ま、ただ。今学べば良いんですよ。単純に当時は学びたくなかったんだし。欲している時にやれば良い。
時間的な制約とかあるけど、ま、いいじゃん。時間作れば。ははは。

自信をもつ?諦める?ま、どっちでも良いんだけど。

人に依存しすぎてたなって思います。かまってちゃん。
ちょっとしたことで落ち込んだり。疑心暗鬼。

でもね、結局自分のことを自分以上に思ってくれる人っていないですよね。
もちろん自分のことをすごく思ってくれる人はいるけど。
そこの差を比べると落ち込んだりするわけです。「こんなにやってるのに!」みたいな。

無駄に疲れるわけです。
分かり合えない人もいます。こちらが好きでも、あっちは好きではないこともよくあります。

そういうのを「あっそうね。」って思って生きていく年齢に達したんだと思います。

ということで

まだまだ生きていこうと思います。
これからもよろしくです。

39歳の誕生日
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サイエンス実験室を通して学んだこと

いおぎみんなの学校でやっているサイエンス実験室ですが、4月になる1年生がどどーんと入ってきました。
昨日は4月に入って、固定メンバーでの2回目の実験室だったんですが。
いやはや、これがなかなか難しい。
なめていたわけではないんですが、ここまで難しいとは!って言うのが率直な感想です。

ってことで、ちょっと時系列でお伝えします。

それは雨の水曜日でした。

4月3日、初めての子供たち(1年生)を迎えての実験室初日。
僕はこう考えていました。
「最初から実験するより、まずはみんなのことを知ることが先だろうな。」
「サイエンスってなんだろう?ってことをまずはみんなで考えたいな。」

ってことで、五感をつかっていろんなものを感じよう!ってタイトルで始めました。

ところが。

その日はまだ学校が始まっておらず、それでいて雨ということで。
一日中で遊んでいた子供たち。
僕が着いたころには熱気むんむんっていうか、ドッジボールとかして遊んでいる子供たち。

さて、いざ始めようと思っても、僕が考えている内容が彼らの気持ちと合致しない!
且つ、準備の関係上、他の実験ができない。

しょうがない、やるしかないと思ってスタートしました。

講師側の明らかな経験不足と準備不足。

ってことで、まずはみんなに座ってもらって「始めまーす」ってやり始めました。
で、自己紹介とかしてもらおうとするんですが、子どもたちはもうすでにたくさん遊んでいてそれぞれを知った状態なんです。知らないのが僕だけ。
「えー、なんで今さら」感がひしひし伝わる。

うーむ。

でもしょうがない、先生は知らないんだもん、ってことで進めたんですが。
これが良くなかった。

子どもたちはだんだん「面倒くさいな」って気持ちになってくるんですね。
「なんで実験やらないの?」って言い出すんです。
ま、もちろんそうでしょうね。実験室だもん。

やる側としては実験のつもりが、なかなかわかってもらえない。
且つ、一度やる気がなくなると、ほとんどいうことも聞かない。などなど。
終いには好き勝手なことをしだす始末。

おう、これは困った。

こちらから質問してみた

で、だんだんみんながどっかに歩き出したので、ちょっと一喝。
「まずは集まってください。」と。

で、聞いてみたんです。
「何が実験だと思う?」

そしたら、まぁいろいろ。
爆発させるのが実験だよとか、液体混ぜるのが実験だよとか。
先生は植物観察なども実験だと思うよ!ってことで言ってみても「ちが~う。」

なるほど。そもそも実験って何?ってことからだな。
少しずつわかってきた。

まずわかったこと

子どもたちって、僕らが思っている「サイエンス」がやりたい!って思っている子は実は少ないんですよね。ただ、漠然と実験って面白い!みたいなイメージはあるみたい。
それがきっと重要で、そこからどんどん興味を持ってもらえるような実験をしていくことが重要なんだろうなと。

あと、しっかり叱るっていうのはとても重要なんだなと。
こちらが曖昧なことを言うと、子どもたちもすぐにわかる。
毅然とした態度っていうか、もちろん笑顔なんだけどね。

ってことで、次の週の実験は急遽変更することにしたんです。
もともとは「音で遊ぼう」って内容だったんだけど、「シャボン玉実験」に変更。

少しエンターテイメント性を出さないとって思ったんです。

そして辛い日が来る

さて、次の週までに楽しい実験にしないと行けないんだけど。
ふーむ。

実は実験って失敗もつきものなんですよね。
特に、いつもやっているわけではなく、条件も変わってくる。
成功しないこともあるわけです。

ただ、子どもたちに対して「いきなり失敗」はあまり良くない。
「あぁつまんないんだ。」って思われるのは良くない。

ってことで、悩むんですよ。
だんだん水曜日がやって来るのが憂鬱に感じるんです。
とは言いつつ時間はすぎる。明日が来なかった日はない。
やまなかった雨は一度もない。

ってことで、気づいたら火曜日になっているわけです。

ギリギリまでやってみることが重要

さて、そして当日になるわけです。
もちろんサイエンスばっかりを仕事としているわけではないので、バタバタします。
しかしあの「子どもたちの冷たい視線」が脳裏に焼き付いているわけです。

これはどうにかやり遂げねば!ってことで昼飯も食わずに準備に取り掛かります。
で、自分でもいろいろ考えたカリキュラムを本番前に実験してみるんですが、思うように行かないんです。

うーむ。

でも、ギリギリまで色々やってみる。
できないことはできないで外すなど。

ほんと、実験室が始まる寸前まで繰り返します。

そして時間が来るわけです。

あら不思議、気持ちが落ち着くもんだなと

一生懸命準備もした。一週間憂鬱な時間も過ごした。
やれることはやった。

まるで入試みたいだな。

ってことで本番に望むんですが。
あれ?って思うんです。
なんか「まぁいいんじゃね?」「どうにかなるんじゃね?」って気分になるんですよね。

そして、実は前回と同じような進め方をするんです。
グループ作ったり。

あれ?前回みんなイヤイヤ言ってたじゃんってことが、なんかスムーズなんです。
ま、相変わらず言うことは聞いてくれないんですがw。

なるほど、こっちの精神状態が伝わるんだな!ってやっと気づくわけです。

そして思った一番重要なことはと言うと

これがサイエンスだからとか習字だからとか、あまり関係ないのかな?って思ったんですが。
要はやる側がちゃんと信じてやることで、伝わりやすい。
これって別に子供相手じゃなくてもそうですよね。

で、信じてやることにおける根拠って、どんだけ頑張ったか?っていう、まぁなんとも科学的でも何でもない精神論に落ち着くわけです。

ってことで、心を鍛えるのが一番重要なんではないか?って思った39歳春の出来事でした。

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子育て中の親から、一つお願いします。

最近は僕はあまりないんだけど。
子供の成長のなかで、あんまり言うことを聞かないっていうかまだ聞けない時期ってあると思うんです。

そういう時ってやっぱり親もそれなりに気を使っているものの、いろんな迷惑をかけてしまうんです。

例えば電車でうるさいとかはわかりやすいですが、子供を連れて歩いている時に親の視界が狭まることで迷惑をかけることって結構あると思うんです。

で、その時ですが。
親はね、申し訳ないって思っているんです。
そこを「舌打ち」だけで通り過ぎるのやめてください。

迷惑を掛けるのは、子育て中親に限った話ではありません。
僕も迷惑だなって思って舌打ちしてしまうことはあります。
でもそれって「ああ、言っても無駄だな。」って思う相手だからなんです。

子育て中の親は一生懸命で、且つ社会に対してよくしていこうと言う気持ちを持った人が大半なんです。
だから、一言「後ろ通ります。」とか「もうちょっと静かに」とか。
せめて、舌打ちだけはやめてほしい。それならちゃんと言ってほしい。

悪気があってやっているのではなくて、気づかない場合が大半だから。

よろしくお願いします。

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あんまりいい気のしない「褒められ方」

最近ちょっと人に言いたくてたまらないけど言えない事があって、もやっとした毎日です。

どんなことかって言うと、ま、もしかしたらある程度大人だったら仕事上「ま、そういうこともあるさ」程度のことかもしれません。
周りの人はそんな感じです。

ただ僕はとっても違和感を感じている。
どこまで真面目に考えるかなんだろうけど。

それは何かって言うと、「人の褒め方」なんです。
いや、実は褒めていないのに「褒めているかのごとき言葉」を使うっていうか。

あれって嫌だなって思います。お世辞ともちょっと違う。
お世辞ってなんか本当は綺麗じゃないですか。人にすこし喜んでもらえるし、実際「そっちの良い方向」に向かっている人に言いますよね。
でも僕が気になっているのは「特にあんたに興味ないよ」的な褒め方なんですよね。

そういうのをよく見ます。よく見る。
もちろん自分もそういうの言われる。

僕はそういうのが大嫌いだから露骨に嫌な顔をするんですが、その相手は大体「あ、しまったな」って顔をするんです。
じゃ、言うなって。

そういうのがコミュニケーションにおける円滑油だと思われると、ちょっと違うなって話。

だんだん人を信じるのが面倒になりますね。

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四十にして迷う

もうすぐ40歳の私ですが、最近社会に溶け込めていない理由が何となくわかってきました。

我慢ができないんですよね。

我慢ができないと困るのは、いろんな人に迷惑をかけるんです。
迷惑は掛けたくないんです。
他の人は我慢しているわけです。

でも我慢しているってことは、いろいろやなことがあるわけで。
やなことを解決したら、その先にはもっと良い社会があるんじゃないかな?って思いつつも、それはそれでまた問題が発生するのかな。

ほんと、高ストレス社会ですね。

さて、自分が変われるかってことだけど。

何も基本的な考えかたすべてを変えていこうって話ではありません。
スタンスっていうか。
人に流されてみるっていうか。
そういうことも大切なんだろうなっていうか。
0か100かで生きるんじゃないって言うか。
許せない事の範囲を狭めるって言うか。
人にやさしくって言うか。

今更そんなこと言っているくらいだから大変だね、こりゃ。

このまま頭が硬いまま終わっていくのか、それとももう少し楽に生きていくのか。

四十にして惑わず。

現在最後の悪あがきをしているところです。

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お金が払われる3つの理由を考えてみたんだ。

昨日、ちょっとつらい時間帯があったんだけど。
そんな時に僕はお金について考えていたんだ。

お金をもらえる理由は以下の3つしかないと思っている。

  • 成果
  • 成果と期待値
  • 期待値

ただ、考えてみると「成果」だけにお金を払ってもらう場合って少ないんよね。
自分が払う時も然り。

お年玉ってまるっきり期待値でしょ。
仕事の報酬って期待値が多分に含まれているでしょ。
特に会社勤めの場合は期待値が結構占めているきがするな。
(ま、反論は沢山有ると思うが。)

日雇いの場合はけっこう成果の割合が大きいかもね。
アイス買う時のお金はなんだろう。成果(品)に払っているきがするよね。
ってか誰に払っているんだろうか。アイスの利益はいろんな人に配分されるよね。
「今後も美味しいアイスを食べさせてください。」なんて思いながら買う人はあんまりいないかも。
「このアイスの流通に関わっている人に感謝。」なんてホントいないよね。
でも「このメーカーが好きだから」とかいう理由での購買は結構ある気がする。
ってことは、この場合「愛」にお金を払っているってことかな。

あんまり成果って評価されないよね。って言ったら語弊があるか。
成果ってすぐに期待値に変わっていくから、人はどんどん苦しい立場に追いやられるってことかな。

自分がもらったお金がどれに属しているのかを考えると、胃がキリキリしてくるから楽しいよ。

なんか結構厳しい世界で生きているんだなって実感。
そんなプレッシャーと闘いながら生きているんだけど、結構人って成長しないよね。
未だに自力で重力に勝てないんだから。

ま、ゆっくり行きましょう。

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