月別アーカイブ: 2019年9月

良い睡眠なのかわからない

寝るは寝た

昨夜はいつの間にか意識がなくなって寝ていた。最近にしては結構珍しいことだ。いつもなにかどうでもいいことばかり考えていたから。

寝る前に何をしていたかっていうのももちろんわからない。

毎日そういう状況だと嬉しい。

振り返ってみると昨日は結構ハードだった。物理的と言うよりは頭を使った。とても疲れた。目も疲れた。

そういうときってなんか考え事をしそうなものだが、昨夜は眠れた。

多分いちいち解決して寝たからなんだろうな。

毎日解決すること

多分問題があったら、根本的にとか無理かもしれないけど。一日の終りには一時的にでも解決することが良いことなのかもしれない。

そしたら少しはこころが軽くなる。

毎晩瞑想をするとかって、本当に心に良さそうな気がする。実践してみようかな?

ってまたやりたいことを増やす。。。

結局自分がやりたいことって

心が落ち着いたり、自分を高めたりすること。それが一番欲していること。

間接的に働くってこともそう。もちろん働くことの内容でそれを満たせればokだけど。まだいまだかつてそういう気持ちになれたことがない。

でもそれも心の持ちようかもしれないなとは思う。

すこしずつだけど進もう。

今日も良い一日でありますように。

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一日が終わろうとしている

今日僕は何ができたんだろう

一日ずっとなにかしっくりこなかった。特に理由はなくただそれは自分の問題である。昨日からずっと僕に足りないことが明確になってきているのがよくわかっていて、それに対して僕が何をできるのかがわかっていない。

明日は多分来る。明日までに死ぬことはまずないだろう。だからこの問題は尾を引いて明日の僕の背中にのしかかってくる。僕はそこから逃げることもせずただ流れに身を任せ、まぁいっかそれもありだなって感じでやり過ごすだろう。

相手を怒らせるのはしょうがない。それにいちいちビクついていてもしょうがない。自分は一生懸命やっているのだから文句言われる筋合いはない。言いたければ言えばいいし、嫌いならそれで良い。僕にはもっと広い世界がある。

僕は逃げ出さない。

逃げ出さないって言ったらかっこいい。逃げ出さないんじゃなくて逃げられない。そんな勇気がないって言ったほうが正しいかもしれない。ただ、そんなのどっちだって良い。僕は僕なりに、また明日一日を普通に僕なりに過ごすんだ。もしかしたら面白い笑えることが怒るかもしれないし、相変わらず腹を立てているのかもしれない。

でも腹を立てても良いことなんてあまりない。感性が合わなくて影で色々言うやつはいるけど、いやいると思っているけど実際はそんなやついないのかもしれない。いない確率も入る確率も50:50だろ。きっと。

だから僕は明日、また普通に過ごす。普通ってなんだろうとか言い出すバカが居るが、それは僕だ。普通って言葉が嫌いだけど結構安易に使ったりしている。

普通に生きるって言っておけば、周りも「うんうん」とか言って頷いたりしてくれる。それでいい。軽く人に合わせて生きていくのが正しくて、それがコマーシャリズムのいちばん大事なところなんだから。

奇をてらうって言っても結局それは大衆受けするって意味で、別に珍しいことをするって話でもない。

今更目新しいものなんて現れるとは思わない。

僕がまだ触れたことがないことがたくさんある

新しいものはなくても、個人として触ったことがない、触れたことがない感性はきっとあって、その中にはきっと僕が大好きなものがあるんだと思う。僕はそれを受け入れて、またアウトプットしたいと思っている。

この機会をうまく使って、僕は前に進もうと思っている。

少しだけ、優しさを捨てることにする。

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心の体力

申し訳ないけど

もう心の体力がなくて、人と話したりするのがきつい感じです。

ネガティブな気持ちしか残っていません。どうして生きていけばよいのかわからない。

人は他人に厳しいので、いくらきつくても寄り添ってくれたりしません。寄り添ってほしいけど、「寄り添うことは結局甘やかしだ」って言葉で片付けます。

本当に人に頼らないといけないときってあるだろうから、そういうときに人に寄り添える人間でいたいけど、その前に自分が壊れてしまいそうです。

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感謝を受け入れ、今日も息をする

まーいっかの精神

最近一番のお気に入りの言葉は「まーいっか」である。何事も期待をしすぎず、一喜一憂しないで生きるのが心の健康にとって大切だと思っている。

でもやっぱりどこかで期待する。そりゃそうだ。

だって人間何事も一生懸命やったら、やはり自分から生まれたものに対して愛着も生まれる。それなりに評価を求めてしまうだろう。

でもそんなにうまく行かない。だいたいは自分が思ったよりも評価は低い。

だからその時のために「まーいっか」を心の財布に入れておくこといしている。

決して諦めろという意味ではない「まーいっか」

まーいっかはどちらかと言うと、他を排除すると言うよりは他を認める、受け入れる言葉だと思っている。その人の立場に立つとか結構難しいけど。

もちろん最初は「あーめんどくさい」って気持ちがあるだろうし、そこからいち早く逃げ出すためのキーワードでもいいんだけど、多用する事によってうまく他者を受け入れたり、自分自身に柔軟性をもたらしたりできるのではないか?と思っている。

恐れることなんてない

なので、決して自分を曲げて進もうとか言う意味ではない。

むしろそこに自身を持って戦いつづける、戦い続けるわけではなくて受け入れるとか含めて、下手くそなりにちゃんと前向いて生きていくって言う意味。

さぁ頑張ろう。

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普通に息をして生きている

欲しい物は何でも手に入る

そう、欲しい物がないってこと。別に本当に欲しい物なんてないんだなってのが最近気づいたこと。

本当に欲しいものはCMじゃないけど、お金では手に入らない。努力しても手に入らない。手に入れたとしても知らないうちに手からこぼれ落ちて、結局それは地球の一部となってどこかに存在しているけど。結局僕の手の中にはない。

だから欲しい物なんてない。欲しい物なんてあってもしょうがない。なりたい自分なんてものもない。ただただ生きていくだけで十分。そして死ねればそれで良い。

音楽って良い

音楽を聞く。結構音楽を聞くのは好きだ。まだまだ知らない曲が多いけど、今更色々覚えるのはもう無理だなって思った。前から気になっていたけどあんまり聞いたことがないミュージシャンのアルバムとか、改めて聞いてみてもあまり覚えられない。

やりたいことは山ほどある

結局欲しいものなんてないけどやりたいことがありすぎるのが問題なんだなって最近わかってきた。

やりたいことを減らすことから始める。

この前書いたけど、それでも多すぎるのかもしれない。

何一つ進んでいない。

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もっと集中すべきなんだ

ここ数年やりたいことがなにかよくわからないし、やりたいことがあってもとっちらかってしまって、一体何がやりたいんだ?ってなるんだけど、一つなんとなく当たり前っぽいことだけど確信していることがあって。

どういうことかというと、何事も行動に移さないとそれが大事なことがどうかってわからなくて、一つ一つ行動することによってそれを続けたいかどうか?がわかるし、僕とかはやりたいことがたくさんあるんだけど、それを全部やるのは無理で、その中で優先順位をつけるためにも、まずはやってみるってことが一番大事なことだなって、思っている。

で、そこで。何が難しいかって、「やってみること」。

ほんとちょっとしたことでやる気が起きない。毎日朝起きたら腹筋するとか。全然続かない。毎日文章を少しずつでも書くとか。なかなか続かない。

そこで、続かないことで自分を責め続けてもしょうがなくて、続かないけどしょうがない。まぁやったときだけちゃんと自分を褒めてあげればよい。

では、やらなかったときに自分を責めないためにどうすればよいか。

人って色々我慢して生きているみたいだけど、僕は我慢するのが好きではなくて。

そのワガママを聞いてもらえるためには、やっぱり何かを示さないといけない・・・。結局少し頑張らないと。

そう考えると、やっぱりきついとか考えないで無心で頑張れるってことを持っていて、それを生業とするのが一番しあわせなのかな?って思うんだけど。

それはそれできついのかなーとか。

結局お前、きついのが嫌じゃん!ってことになって、そうなるとやっぱり一番大事なのは「一生懸命、まずはやってみる」に尽きるのかな。

優先順位つけて、捨てていくってのも大事なことかもしれない。

だから、今日からやることを絞ることにした。

  • 音楽作成
  • 映像作成
  • サッカー
  • サーフィン
  • 筋トレ
  • 文章を書く

以上。上のことしかやらない。(これでも多いのかな?)

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今年の栗

Facebookが、たまに「○○年前のあなた」みたいな感じで昔を思い出させてくれる。特に頼んだ覚えもないし、それはもしかしたら思い出したくない記憶かもしれない。でもSNS運営者からしてみたら善意だろうし、そこに拒否権はない。

いやならやめれば良い。

数日前、3年前の思い出が映し出され、そこには「今年初の栗」みたいな題だったと思うんだけど、まぁ栗が写っていた。

え?8月末にもう栗採れてたの?って不思議に思い、昨日落ちているかどうかを確認したんだけど、一つも落ちてない。季節のよって違うもんなんだな。農業って大変だ。

生きていく上で食べていく必要があるけど、天候に左右される農作物に頼っている部分はかなりある。うちの庭の栗は勝手にできているかもしれないけど、大体は農家のみなさんが汗水たらして、自然と向き合いながら大切に作っている。

本当に文字通り自然の恩恵なのだけど。

スーパーで野菜を買っているだけだと、値段の上がり下がりでその年の収穫はだいたい分かるけど、やっぱりあくまでそれに気づく程度で、僕なんて野菜の季節を言えって言われてもほぼほぼ困る。

だからというわけではないけど昨日、近所のおばちゃんの農作業を手伝ってきた。耕すという話だったので筋肉痛覚悟ででかけたら、耕運機なるものでガタガタするだけだったんだけど。

いずれにしよ、我々は自然に食べさせてもらっているわけで、その感謝をわすれずに。

自然に敏感にいたいものだ。

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