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そして短絡的、暴力的になる

思考停止になるとだんだん人の行動が変なものに見えてきて、希望とかがどんどん失われていく。
そしてなんで生きているんだろうとか考え出す。

しかし、ここで間違ってはいけないのは決して「死にたい」と本気で思っているわけではない。
死にたいっていいたい願望があらわれているに過ぎない。

しかし決して普通な状態ではないし気をつけないといけない。

そして生きている意味がわからないと言い出すと「死ぬ」か「殺す」かみたいな二項対立が出来上がったりする。

その後はどちらを選ぶか。わからないけど。

この状況からうまく抜け出せる人もいれば、抜け出せない人もいる。

それは何の差かというと、大体は周りに助けようとする人がいるかどうかだろう。

結局誰かに依存して、生きている。

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なぜここまで思考停止してしまう自分ができあがったかを考える。

これは特に調査した結果や一般論ではなくて、僕自身の話である。ただこのまったくもって個人的な思考プロセスが、他人にも当てはまるではないかと思う。
また思考停止はそれがどの段階で現れるかにもよるが、以前よりもプロセス的にも物理的にも早い段階で思考停止に至るのではないかと思っている。というのも、思考停止が起こりうる状況は別に今の時代だからあるわけではなく、突き詰めて考えると最後はそうなるのではないか?と言う前提が私の中であるからだ。
ただ、そんなに簡単に思考停止に陥る状況があったかというとそうではなくて、やっぱりそこはどうにか頭を働かせて乗り越えて言った気がする。

じゃ、なぜ思考停止に陥るかというと、個人が意見をもち始めたことが理由なんだろうと思う。ポジティブに考えるともちろんいいことだし、良い方向に進むという前提で考えると多分歴史的に見て今がただの過渡期なだけであると思われる。ただ、その過渡期だからこそ人々は解を求めにくくなり、そしてそれが高い壁となり放棄するのであろう。じゃ、その壁って何か?というと、意見の相違であることは言わずもがななんだが、その意見の相違って言うのが混沌としていて、その意見の持ち主が思っている違いが結局のところ自分でも良くわからない違いとなって存在していて、これが話し合いとなると双方実はなにを話し合っているのかわからない、論点がずれると言った状況が生まれる、生まれやすいんだろうと思う。こうなると「考えるのが嫌になる」状況が生まれる。
じゃその相違が以前と何が違うかって言うと、大まかな違いか、僕からしたら「どーでもいい」小さな違いを指しているのかなのかなと思う。もちろん現在の相違が後者。小さい相違なのに壁としてはどんどん高くなる、そしてその壁は強固ではないが、分厚い。まるで砂を高く盛っただけの境界線があるみたいな。
極端な例だが「人を殺していい」「殺してはダメ」を話し合う方が「人を殺していいが尖ったナイフで一刺しに殺すのだけが許される」って意見と「人を殺していいが尖ったナイフで2,3回指して殺すことだけが許される」と言う意見が対立した時、もう多分自分の意見の正当性がなんなのかわからなくて、とにかく自分の意見に固執するだけに終始する状況が生まれるのではないか?いや、もっと言うと途中で「前提として人殺すのだめだろ」って意見に戻らないとおかしいんだけどそこにすらたどり着かない。

さて、なんでこんな状況が生まれてきたんだろうって考えると、それはやっぱり先行きの不安感と、それを助長するまたはそこに対しての解決策を提示してくれる(と勝手に信じている)情報量の多さだと思う。ま、不安が先か情報が先かはよくわからないしちょっと置いとく。そしてその情報を受取るツールが同時に拡散装置となっているから、実はもう自分で考える必要がなくなってきている(と勘違いしている)状況があるわけだ。そうそれがインターネッツ!

先行きの不安感を何で解決するか。それは仲間を作ることと思っているフシがある。いや、仲間大切だけどさ。じゃ、仲間ってどうやったらできるの?手っ取り早いのは自分が上のポジション、それもちょっと上に立つことなんだろうね。マウンティングすれば、そいつはマウンティングしている人を尊敬する。人間いつの時代だって実は人から認められるってのはすごいことで誰でも悩んでいたんだと思う。承認欲求って昔からあった。でも今は安っぽい承認が簡単に得られるから、どんどんそれが助長していくのだろう。簡単な承認が得られるから、自分の意見なんて軽くていい。変なスピード感を求められるから、薄っぺらになる。そのスピード感もあたかもそれが今後の成長に不活化のようにまさに情報によってその考えが助長されていくけど、人間の清涼スピードなんて対して早くはなくてもう気付いたら、受け取る情報を横流しするだけで精一杯になってきている。ベルトコンベアーの端では商品が沢山落ちている状況なんだよね。

さて、話がそれているのかどうかわからないけど。こういう状況なので、意見が噛み合わないっていうか、ちょっと深まった議論をしようとするとそれに対しての「思考的余裕」「時間的余裕」がないから議論にならない。思考を停止する。

あと、偏ったステレオタイプが多いと、その先の相手の答えがわかっていると言う錯覚を自分が勝手にしてしまうために、思考を停止することがある。

一番多いのが、もう前提条件が違いすぎてっていうか相手に前提条件がないんじゃないか?ってところから話が始まって、もう自分のキャパを超えてしまって思考停止。

まー、とにかく。ちょっと人のせいにしている書き方だけど、いや人のせいにしているけど。とにかくもう、相手の立場とかにたって考えるほどの心の余裕がなくなってきていて「もういいや。」で済ましてしまう。

本音を言うと議論を投げ出したり、思考停止に陥ったりするのは良くない事だって自分自身は思っているし、まだ余裕があるうちはなるべく話をしたい・

でもSNS見てると、やっぱり「あーこういう意見を言いっぱなしの人はもう見るのも嫌だし」って思うし、そういう意見が増えていっている気がする。

それは正直悲しいし、やっぱりそこで思考停止なわけである。

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約束を守って生きていきたい。

どんなにお金持ちになったって、どんなに高い地位を手に入れたって、どんな名誉をてにいれたって。
僕は約束を守れるような人間になりたい。そうでありたい。

相手が嫌な人でも、約束したならちゃんと果たしたい。
約束を果たすことで、その人が変わるかもしれないし、その力を信じている。

息子にもそういう人間に育ってほしい。

彼の身近な人が、卑しい人間ではないことを祈るばかりだ。

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物語が持つ力に突き動かされる。

最近、結構アニメを見ている。本も読んでいる。

そんな中で最近感動した話を少し。

今更感があるんだろうか?「四月は君の嘘」をアニメで見た。
数年前、無料のマンガアプリで少しだけ読んでいて、「あー、この話なんかいいなー」と思っていたんだけど。
元からあまり漫画は読まないほうで、途中で飽きちゃったのもあって忘れていたんだけど。

ふと「そういやあの話なんだったんだろうか?」って気になって。
で、見てみた。

内容はまー良いとして。
自分自身がキャストと同様な体験なんて皆無なんだけど、一つ一つ違うことに置き換える(または置き換えられると言ったほうが良いかもしれない)と同様な体験があって。
人を信じる強さ、自分の弱さ、立ち向かう姿勢、生きる意味。

正直おもいっきり感動した。

そしてそのアニメの中で出てきた「いちご同盟」が気になって図書館ですぐ借りた。

そしたら、あーなんだって思う部分もあるんだけど、その本も感動して。

生きていると自分に自信がなかったり、挫けそうになったり、投げ出したくなったり。
でも生きたくても生きていけない人も沢山いるわけで。

僕は幸い体だけは元気だ。これって幸せなこと。とても。とっても。
もちろん、短命におわる命が不幸せかというとそれはわからない。
でも、もっと生きたいと思う人が大半だと思う。

そんな人に対して、今の自分の生き方は失礼じゃないかなど考える。

人と比べるものではないかもしれない。でもやっぱり僕は1人で生きているわけではない。
だから、やっぱりそういう意味で死にたいと思う感情は冒涜以外のなんでもないと思う。すくなくとも今の自分にとっては。

だから、今日も苦しみながらも何かを生み出そうとしている。

で、それってごく普通の生き方なんだなと。
決して自分だけが特別なんではなくて、みんなそうやって生きているんだ。

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たまには書いておこう

自分自身もこのサイトのことを忘れていたぐらい、なんにも書く気に馴れずにいますが。
なんか書いてみようと思います。

最近やっていることとして水泳をはじめました。
一回に1000メートル泳ぐことにしています。

個人的に今の悩みは、すぐに頭が混乱すること。
すぐに緊張して、やるべきことの順番がわからなくなる。

でもこれって今更始まったことではなくて、昔からそうだったんだなって思うんです。
それが年々体力の衰えとか、今までいろいろとサボっていたから能力が急激に落ちているんだと思うんです。

ここ数年この悩みに尽きます。

毎週1回はフットサルで極限まで疲れて、水泳でリハビリがてら体をならす。
これに長らく行けていないサーフィンを追加して、体を鍛えることで心を鍛えたいなと思う次第です。

自分自身が今の状況をしっかり把握して、一個一個乗り越えて行くしか生きていく方法ないんだから。

他にも悩みはあるけど、その悩みはとりあえず棚上げです。考えてもしょうがないことだし。
時が解決するとは良く言ったものです。そのとおりかもしれません。

でも、必ず報われる時がくるだろうし、報われなくてもそれはそれで人生だったねって笑って終りを迎えられればそれでよしかな。

でも忘れないでほしい。僕は色んな人に感謝しているし、生きている限り還元していくことを強く誓います。

早寝早起きを今月から始めよう。(人生でこのセリフを何回言ったんだろう。。。)

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気づいたら新緑につつまれている。

あっという間に初夏ですね。
この前まで桜がどうのこうの言っていたのが、ゴールデンウィークの混雑と日差しが相まって、なんとなく暑くなってきました。

特に書きたいことがあるわけでもないんで、適当にいろいろ書いておこうと思います。備忘録的に。

家にいると周りの緑に包まれて、静寂に包まれています。
しかしこの静寂が心に及ぼす影響は消して平穏だけではありません。不安も期待もひっくるめて、色んな思いが去来します。

目標をもって生きていくことが楽しい時と苦しいときとあり、それは同様に目標がないときもその通りです。
目標も小さなものから大きなものまであって、小さいと思っていても大きかったり、大きいと思っていても小さいときもあったりします。

人と付き合うのが大変だけど、人と付き合いたいと思ったりもします。

食べたくないけど、食べないといけないとも思うし、寝たくないけど眠くなったりします。

生きるってそういう矛盾が増えていくことに対処していくことなのかなと思ったりもします。
鬱々とした日を過ごしているかと思えば、晴れやかな気持ちになることもある。

その落差は結構辛かったり。
だから平穏に過ごしたいと思い出す。
でもその平穏って楽しいか?って言うと、今はやっぱり否定するんだろうな。

そんなモラトリアムなお年頃。

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写真が切り取っているものはなんなのか?

僕は写真がまぁまぁ好きです。
写真好きだ!と声を大に言えるほど好きではないし、詳しくもありません。
でも写真を撮るのは好きです。

写真は何を切り取っているんだろうと考えます。
思い出はあくまでも心のなかにあるもので、それは実態としてそこにあるものではなく。
もしかしたらそれはただの思い過ごしかもしれません。
写真はそれを補完してくれるものでしょうか?
そういう機能もあるでしょう。

写真はその場にいあわせない人に自分が見たものを伝える機能もあるでしょう。
しかし実際写真で切り取られたものは私が見たものそのものではありません。
あくまでも一部です。

写真は僕らのなんらかを補完してくれるものでしょうか。
そうであったら嬉しいし、そうであると思います。

僕らは写真を見て、そこに写っていない何かを受け取る。
それは未来への新たな道標になるかもしれません。

少しだけその場の空気を切り取って、見せた人がいい気持ちになる写真が好きです。

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思い通りに行かないことも多々ありますが。

生きていると思い通りに行かないことって沢山あって、それは自然に対してなのか他人に対してなのかなどいろいろありますが。

どっちにしろ、それぞれにおいて理由があって、その立場にたつとそれはごもっともだったりするわけで。

思い通りに行かないと、相手のせいにしたり、もしくは自分のせいにしたりしがちですが、結構どっちのせいでもないっていうか、どっちとも悪かったりというか。
なので相手を責めても自分を責めても解決しないことが多々あるわけで。

そういう時は自然相手であれ人相手であれ、対話が一番の解決につながるんだろうなって思うわけです。

対話はそれはそれで結構怖かったりしますが、それは対話が始まるまでで、それを乗り越えれば解決につながる確率のほうが高くなると思います。

恐れていたら何も始まらないんだなって思う今日このごろです。

本日も良い一日でありますように。

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桜の花が咲く頃に

昔バンドをやっている頃にそんな歌詞を書いたことがある気がする。
とてもありきたりな歌詞で、とてもありきたりな歌だったと思う。

そんなありきたりな歌を聞きに来てくれるお客さんがいて、僕はそんなありきたりな歌を一生懸命歌っていた。

いまもありきたりな生活を送っている。
年々ありきたりが複雑なことに気付いてきていて、桜の花一つとってもありきたりではあれ当たり前ではないのではないかとも思う。

今日も生きているなー。

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今更ですが、数学は面白いんです。


「フェルマーの最終定理」を読了。結構前に買ったんだけど、なかなか読めなくてやっと最近読み終えました。
読み始めたらすぐだった。

サイモン・シンの著書は二冊目。
最初は「数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち」

どちらも数学の話ではあるが、数学がわかっていないとおもしろくないわけではない。(もちろん、「数学が好き」で、ちょっとした基礎知識は必要だと思うけど。)
フェルマーの最終定理自体は、そもそもなんの役に立つの?って思われていたところもあるみたいだけど、それをある情熱を持った証明者が8年間こもって研究し、それを解く緒として他の予想や定理を使い、最終的に今まで繋がらなかったことをつなぐことができ、結果的に大いに役に立つって感じ。
これを関係した人たちや歴史と照らし合わせて語られている。

谷山ー志村予想にもしっかりと目を向け、大事な章として取り扱っている。

まさにサイモン・シン自体が科学に対して敬意をもっていることが現れている。

書かれている数学的内容は殆ど理解はできないけど、それでも自分の中の好奇心を駆り立てるに十分な本だった。

さて、今日も頑張る。

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