帚木 蓬生「水神」読了。

えらく長い時間かけて読んでしまった。
この本を買ったのが2012年の8月。
約半年かけて読んだわけだけど。

決してつまらなかったとかではなくて、むしろじっくり読みたかったから。

結果「ぐっ」と来た良い小説だった。

この本との出会い

去年の夏、素敵な人生の先輩と知り合いになった。
一緒に杉並区の下井草で開催された「灯りまつり」を手伝っていた方で、言い方は悪いけど自称「ちょっとダメな大人」。
話を聞いていると、おもわず頷いてしまう、と言うか僕と似ている部分があって、思わず「あー、こういう人生の先輩がいるってことは、俺も存在価値があるんだなー。」とか思ったりした。

その方と意気投合し、僕がまちづくりに従事していると話したら、また別の方を紹介頂いた。
その方含め、三人で新宿のライオンに集まり、あーでもねー、こーでもねーって話をさせてもらった。
僕はその場で「学生時代は九州だった。」「公園の設計をやっていた」「もっと街で働きたい」って話をしていたんだけど、その時に勧められたのがこの本。「水神(上)

なぜかとにかく読め!って話になったんだけど、内容を聞いてみるとびっくり。

なぜビックリかと言うと、この物語の舞台となった筑後川流水域はなんと僕の卒論テーマだった。

僕の知っている筑後川

九州の人以外は、もしかしたらあまり馴染みのない川かもしれない筑後川。もしかしたら九州でも長崎とか鹿児島の人にはピンと来ないかも。
この物語の背景になった話や、川そのものの歴史的な話はこことかここを読んでもらうとして。ま、大きい川で、見るとちょっとうっとりくる。

僕が学生時代に住んでいた福岡市からは距離にして40キロぐらいかな。いわゆる筑後平野はこの川の東側に形成されている。
農学部だった僕は、4年生の夏休みに書きたくもない卒論(誰がそのお題に決めたかも分からない卒論)を作成するために、なんか知らないけど毎週のように筑後川の支流に水を汲みに行っていた。
助手と、クラスの女の子と僕。なんとなく三人が三人、仲が悪かったような。(今考えるとなぜかはわからんけど。)
浮かれる気分なんてこれっぽっちもなく、ただクーラーの効かないバンのクッションの効かない後部座席で寝ることだけに注力する時間を過ごしていた。
支流に到着すると、ただただロープのついたバケツを川に投げ込み、ボトルにたくさんの水を汲んで研究室に帰る。
そのためだけに何時間もかけてバンに揺られる。

結構な回数を繰り返しているうちに、最初はただつまらなかったこの水汲みにも少しだけ愛着が湧いたことを覚えている。
支流だから結構山の中に入ったりして、いつも決められたポイントで水を汲むんだけど、景色を見慣れてくると少ししっくり来るというか。その時深く考えたわけでは全然ないけど「あー、なんか歴史があるんだろうな、この川。」って思ったことを覚えている。当然農村なわけで、その景色に心が落ち着いたのを覚えている。
水を汲むのは夏の間だけだったので、その後の卒論は何書いたかも覚えていないし、なんか適当に終わったんだけど。

その後社会人になってから、なぜか筑後川の周辺に遊びに行くことが増えた。
知り合いができたのもあるし、よく熊本の小国に行っていたので、支流に限らず源流に向かって筑後川を眺めること多くなった。
車の窓を開けて好きな音楽を聞きながら川沿いを走る。そういう時間がとても好きだった。
学生の時より筑後川が好きになっていた。

多分、今考えると筑後川ってかっこ良かったんだと思う。単純に大きいっていう意味もあるけど。
何か凄みを感じるその姿は、実は山に向かうにつれて静かな流れを見せて。
山に入れば入るほど神秘的だった。

故郷でもなんでもないけど、筑後川は僕にとっての川の代名詞になった。

ちょっとだけ小説について

おっと、結局小説についてはあまり書いていないけど。
この小説、一応主人公がいるんだけど、3者の視点から描かれている。
それぞれ立場の違う「庄屋、百姓、侍」が、自分たちの信じる事のために自分の役割を全うする。
それぞれが信じあって、それぞれが人のために尽くす。

それが大きな、時に危険を伴う自然相手に繰り広げられる話。

今の日本人にとって進むべき道へのヒントが詰まっている内容だと思う。

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