小学生から高校生まで暮らした長崎。
親戚に被爆者はいない。
友人の家族には当然被爆者がいて、彼ら自身も被曝2世とかいたんだと思う。
昨日の長崎市長の長崎市平和宣言を読んだ。
被爆国としての原点」
はて、戦争を体験していない世代の日本人において、はたして被爆国と強く意識している人は、広島、長崎の人以外でどれくらいいるんだろう?
長崎でも、佐世保の人はどうなんだろう?
僕らは強く教育された(って言葉が正しいかはわからんが)わけで。
その酷さとかは、資料館に行ったからとか言う話だけではなく身近なものとして、土地の空気として感じていた。
それももしかしたら体験者が語るリアリティー以外のなんでもないのであれば、少し悲観的になる。
やっぱりこういう教育は必要だと思っている。
ま、何も原爆だけが怖いわけではなくて戦争って怖いって意味で。
もう少しそこの部分、国として発信していくべきだ。
小さな政府とか大きな政府とかわからんが、法律どんどん作るよりもっと大事な事があるだろ。
被爆国じゃなくても原点
核の傘とかわからないけど、僕は「今の生活が豊か」だとは全然思っていない。
恩恵は受けているんだろう。複雑化しすぎていて直接的な影響はわからない。
他国の動向もしらない。
僕らは知らないことばかりだ。
知っているのは「Facebookは収束気味だそうだ」とか「秋元康ってジャスラックの理事なんだ」とか。
まー、どーでもいい事ばかり入ってくる。
被爆国じゃなくても原点として「争いが何を生んだのか?」というところを、その勝敗よりも長いスパンで考えて行きたい。
この世界的な閉塞感の原因は何か?を考えたい。
再度書くけど決して今が豊かだとは思っていない。
そしてどうしたら豊かになるかを考えて行動している。
人それぞれ豊かさの基準が違うし、その違いは時間軸の考え方もあるだろう。
今を大切にしたいけど、今だけを考える生活はしたくない。
僕は争いはなくならないと思うけど、武器を使った戦争は絶対的に反対です。
とは言いつつ。
自分もまだまだ力でどうにかしてしまおうとしてしまう事があるのも確か。力で抑える事は武器を使うことと一緒。
原爆の日とか終戦の日は、世界平和を願うとともに、皆一度自分を省みる日にしたら良いと思う。