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経験と学びについて考えた

あっという間に5月です。

最近また酵母を作ってパンを焼いているんだけど。
で、やっぱりやり方はネットで調べて、でうまくいかないとまた別の事例を見て。
で経験値が上がってくると自分のやり方を試しつつ失敗して。

何回も何回も作りなおしては食べ作りなおしては食べ。

ま、自分で作ってるから美味しいんだけどね。

で、まぁこれはたかだか(って言ったら語弊があるかもしれんが、)パン作りの話なんだけど。

昨日また山で遭難事故があったらしく、これは詳しい情報ではないけど、経験不足というか無知というか、そういったのが原因の一つみたいなことが書いてあって。

で。

今ネットでかなりの有用な情報があって、パン作りとかは命にかかわる話ではないからだけど、ある程度自分で失敗が許されるっていうか。
ま、それで自分の経験値を上げていくことができるんだけど。

じゃ、学び、特に人から直接学ぶってなんだろうって思って。

山登りで言うと、きっとネットだけで学べることなんてあまり役に立たないんじゃないかな?って思うわけです。
もちろん予備知識として知っておくに越したことはないだろうけど。

パン作りも山登りも、経験値って意味では失敗の繰り返しと、先人の知恵の恩恵をうけているわけだけど。
経験と学びって結構密接な関係にあって、学びには座学と実学があって。
どれも欠かせない要素なんだろうなって思うわけです。

思い切って聞いてしまうってのは決して間違っていないんだろうなと。もちろんなんでも聞いてたら、聞かれる方からしたら鬱陶しいだろうし、そもそも学ぶ気あるの?って思われるだろうけど。

もっともっといろんなことを学んでいきたいと思う今日このごろです。
サーフィンも誰かに教えてもらいたいなー。

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同意と信頼は違うんではないかと思った話

先日千葉にサーフィンに行ってきました。大学時代の友人と馬鹿な話をしながら波に揺られてとても気持ちよかったです。
前にも少し書いたと思うんだけど、その友人とは思想が結構違います。当然友人なので同じ部分も沢山有していますが。
でも僕は彼を信頼しています。

友人によるFacebookの投稿で少しクリアーになったんですが。
少し考えていたことなんだけど、意見はなかなかあわないものではないかな?と最近は考えています。
僕は絶対的に他人すべてを信じるなんてまだまだできないんですが、信頼している人でも意見はあわないことが多々あります。そんでもって意見が会わないことは普通であるし、それは大した問題では無いんじゃないかな?と思うわけです。
ここで言う意見っていうのは、その人を取り巻く現在の要因に左右されるわけで、利害が違う人間同士意見が合わないのは当たり前だし。
だからと言って信頼出来ないかというと全く別です。

僕は周りの大事な人たちを絶対的に信頼しています。いや、信頼できるように最近ようやくなってきたんだと思います。
意見の違いはちょっとしたことで、それは大概は時間が解決するものだと思いますし、いちいち言い負かすことの必要もないし、あえてその場で同意する必要もないかと。もちろん「なんで同意してくれないんだろう?」って思う時もあれば、ここはひとまず同意しておくべきだろうと言う瞬間はあります。大人の対応をするよう努力しています。

大人の対応が必要な時もあれば、しっかり反対することも時として必要でしょう。逆の立場の時もしかりです。
ただ、それは一時的な、限定的な瞬間の議論だったりするわけです。
僕にとってこういう時に便利なのが、「あーなるほど」の一言です。

前提として人は幸せを求めているはずですが、現在高度成長期なではないので、白物家電一式揃えて一戸建てを構えて、休日はうんちゃらなんてものを欲している人が大半ではないはずなんです。賃貸だっていいじゃない。
それでいて、いつの時代も大事なのは弱い人達を守ることだと思います。
そこで重要なのは過度の自分を弱い人側に持っていくことを避けることだと思っています。

自分が不幸だと思うかどうか。

決してこれが良い考えだとは思いませんし、他にももっといい方法はあると思いますが、比較することもありなのかと思います。
こうやって生きていけるだけで幸せだと思うことは、なかなか人生を豊かにしてくれるものです。

なかなか軸足をどこに据えるか難しいですが、目の前の事に、ある意味自分勝手に過ごす事が重要だと思うわけです。
迷惑はかけますが、いつかちゃんとこの迷惑を還元できればそれでよしかなと。

そんな日々を過ごしております。

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教育における詰め込みについて

最近文系がなくなるとか、偏差値教育がどうたらとか、まぁ昔からあった話ではあるがその手の話が活発化している気がする。ネットでよく見るのは「偏差値教育なくせ」的なところが大半だと思われる。
文系理系に関して言えば、よりビジネス最前線(と思われるところ)にいる人は、一部の大学を除いて所謂「専門学校化」の方が実益に即していると考えている意見が多く見られるような気がする。
その反面、案外所謂理系の研究者のほうが「文系的学問」の重要性を説いている気がする。
ま、どっちにしろ偏差値教育≒詰め込み教育に対する反発は多い気がする。

さて。

お前が言うな的なことを言わせてもらえば。
若い時期に「必死にものを覚える」という作業は、僕は絶対的に必要だと思っている。

僕は後悔している

いきり立って書いている割には、まずは自分の反省から書かせてもらう。
僕は第二回センター試験のときに高校3年生だった。ベビーブーマーで小中高と全部他の学年より1クラス多いと言う状況だった。大学に行くのは今よりは倍率は高かったかもしれないけど、多分今ほど競争は激化していなかったと思われる。

学校はのどかだった。真面目に勉強している奴らもいれば、とことん勉強しない奴もいて、それはそれでちゃんとバランスが取れていたと思う。もちろん僕は後者に属していた。
当然のように現役で受かるところとかなかったし、予備校勝負はほぼ決まっていた。
さて、じゃあ予備校行ったからといってそんなに勉強するかって言うと、浪人を経験した方はわかるだろうが、予備校っていうのはとことん誘惑の多いところで、結局勉強を始めるのは10月とか11月とか。結局現役生に対して大したアドバンテージを設けることもできず、ヤマ勘とかそういったもので乗り切るわけだ。

ま、ぶっちゃけ浪人しようがしまいがそんなことどうでも良いと思っている。もっと言えば大学がどこかなんてもっとどうでもいい。

僕が後悔していることは「必死に覚える」という作業を怠ってきたことだ。

やって来なかったことだから、ここからは仮説でしかないが、実はこの時期に「一生懸命覚える」という作業はとても重要だと思っている。

詰め込みの重要性

  1. トレーニングになる
    僕はこの高校受験から大学受験ぐらいまでの時期に「必死に覚える」という作業をやっておくことが、将来的に脳の忍耐力を鍛えると思っている。もちろん大人になってから覚えられないというわけではないけど効率が劣るのは確かだ。(僕は中学受験をしていないからそこはわかりません。)
  2. 貯金になる
    この時期に鍛えた力を大人になった時に貯金として持っているのと持っていないのでは差がでる。これはフィジカル的にも言えた事だろう。特に基礎力については覚えておかないといけないことが多いし、そして覚えておくことで使える能力が増える。数学の基礎的な言葉の意味であるとか、英単語などはこの時期に必死に覚えた方が絶対に良い。

そしてこれらは決して大学受験のために必要なわけではない。

論理的思考とか言うけれど

論理的思考力が云々と言うけれど、それはやはり基礎ができていての話であって、上っ面の記憶では化けの皮がすぐに剥がれる。(僕自身がまさにそうだ。)計算が解けてもその結果、証明を人に説明することが目的であるわけで、そのためには共通言語が必要だしとにかく基礎をしっかり勉強すると言う部分に関して言えばかなり記憶力、詰め込みに頼らざる負えないと思っている。
脳内の記憶は外部に保存できる時代が来るかもしれないし、シンギュラリティ問題もある。だからと言って、いやだからこそ人間はもっと知を扱うための知を身につけるべきだろう。

今の教育が良い悪いは僕にはわからない。また、詰め込む方法ももう少し良い方法があるだろう。(もしかしたら詰め込みという言葉が正しくないかもしれないですね。)
だけど、とにかく言えることは「必死に覚えるべきこと」があるし、それがないと今後困ることになるのは自明だ。
それがないと真実に辿りつけないし、その範囲はどんどん広がっている。

コモディティ化の中で

単純に偏差値という秤のなかにおいては、世界的に見て差は縮まっていくのは確実だ。範囲が広がっているということはそれだけ覚えないといけない。もちろん全部を覚えるのか、一部をとことん覚えるのかなど選択肢は多様だろう。
僕らが今後どうやって生きていくかと言うところにつながっていく話だけど。僕はやっぱり勉強を続けていける社会になってほしいと思う。ただ学んでいける社会ができても学びたいと思う人がいないと意味もないし、また逆も然りだ。それを続けていくためには体に染み付いた学びの姿勢が必要だし、それは何に起因するかというとやはり20代ぐらいまでの詰め込みは大きいはずだ。

ここまで書いたことは僕個人のことであって、もし自分も似ているって人がいたら今からでも遅くない。必死に覚えるとかそういったことに費やす時間を少しずつ作ってみるべきだろう。この歳で思うことだが、学びは楽しい。

最後に。

叔父がガンでやつれている時に僕にかけてくれた言葉を最後に。叔父は定年後最後まで大学に通っていた。

「おい、たく。勉強っていうのはいつまでもできるものだ。」
僕はその言葉を大事にする。

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英英辞典はかなり良い。

最近は海外のニュースを中心に日本のニュースを見る癖が付いている。
ま、そんなに理解出来ているとは思わんのだけど。

先日のデヴィッド・ボウイの件も、海外ニュースのアプリがいち早く報じていた。
で、アプリを読むってことはスマホで見ているんだけど。

記事を読んでいると当然ながら分からない語彙が多々ある。もちろん読み飛ばすんだけど、どう考えてもこの意味わからんと読めんなって時には調べるんだけど。
僕はスマホを英語設定しているからか、わからない単語を選択して「define」を選択すると、オックスフォードの英英辞典が出てくる。
これがとても便利なのだ。

英英辞典は、当然ながら英語圏の人が意味を調べるときに使うものだが、そういった人に対してわかるように書いてある英語がまた日本人である僕にもわかりやすい。国語辞典も同じことだよね。
で、英和辞典で調べると、その日本語が持つ語彙にしばられるんだけど、英英辞典だと意味が広がる。ニュアンスが理解しやすいというか。もともとの意味なども書いてある。
僕自身が英語は得意ではないのは何かな?って考えると、とにかく英語って単語を暗記する行為だとおもっていたからだろうなと思う。(暗記の良い所はあるし、それはまた別で述べたい。)
ただ、言語はもちろん語彙を覚えることの重要性もあるが、それよりは全体的な意味を感じられるかという所に重きをおいたほうが圧倒的に楽しい。語学もサイエンスなんだなと強く思う。

時代によって考えが変わるところだし、それによって右左てきな考えも生まれるものだと思っているが、今必要なのは、感情に寄り添いつつも科学的に物事を見れる力だと思っている。

尊ぶべきものは尊び、知でまかなえるものは賄う。
そのバランスを取るという意味でも、英語をただの手段としてでなく勉強するのはなかなか良いものである。

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ちょっと頭の整理をしておこう。2016年1月。

思っていることを勝手に羅列する。アウトプットってやつだ。

新年早々箱根駅伝を見てない。毎年見てないから特になんてことない。

しかし国民行事なんだね。関東の大学しか出ていないのに。(山梨って関東??)

青学の監督が「全国に広げてみては?」って言ってたのはその通りじゃないかな。裾野を広げることはいいことだ。しかし特に陸上競技人口の裾野を広げたところで何だってことはあまりない。

ゲスの極み乙女、知らん。
ピエロのバンドも知らん。

北朝鮮の実験について。今更ながら水爆と原爆の原理をテレビで知る。知らなくていいことかもしれないけど知っててもいいことだと思う。

核分裂と核融合。少し勉強したい分野ではあったので基本をおさらいしてみた。

だからと言って特に人に話す内容はない。

北朝鮮が今すぐ核を行使するかっていうとそれはないだろって思うけど。ま、ダメだよね。わざわざ周りの人怒らせてどうすんのかな?って思うよね。

それよりも、韓国の宣伝放送ってのがあるってことを知って、若干ひく。

それなりに効果あるんだってね。ま、そんなの放送されたら嫌だよね。でもそんな放送があるってことにちょっとビックリ。世の中広いんだか狭いんだか。

デビッド・ボウイの死去は衝撃だった。新しいアルバムがかっこ良かったからなおのこと。

正直言ってデビッド・ボウイがそんなに好きだったか?って言うとそんなではなくて、実は今年からとても好きになってたんだよね。

え、今更?感。

聞けば聞くほどかっこいいのね。デビッド・ボウイ。どうしても色物としてみていた自分が恥ずかしくて。結果こういう結末だったけど。ほんと、感謝というか。悲しみ的には中の上。

水曜日のカンパネラにハマっている。

なんでかって、かわいいから。なんか嫉妬するよね。才能って有るところにはあるもんだ。

少しだけ高校サッカーを見た。東福岡って17年ぶりの優勝なんだね。もっと優勝しているイメージ。

最弱チームとか言われてたらしいけど、決勝戦ってすごかったな。高校生も上手ね。

久我山も14番の選手とか、ま、たぶん線が細いとかいろいろな理由でそうそう簡単にプロにはいかないような気もするけど、上手だったよね。センス溢れてた。ああいう選手が好きだな。

バイクで走っている時のこと。車を運転する人にとってバイクって嫌いなもんなのかな?わざわざ走行車線で後ろに走ってる車がまた、その内側から僕のバイクと前方の少しの隙間に割り込んできた。

モラルは色んな所で崩壊していくね。ま、バイクの走行もそんな人に偉そうに言えるような健全な走り方しているかって言うと反省する所多いから。色んな意味で反省。

休みの日にスタバでコーヒー飲んでたんだけど。すごく混んでいて、待っている子供たちがうぎゃーって感じだったんだけど。

結構長居している人多いよね。僕も長くいる方だけど。でも、なんか思った。長くいて良い権利と譲り合いの心。

ずっとパソコンとにらめっこだったり勉強に集中している人(って実はいなくて、殆どの人がスマホ見てんだけどね。)は、待っている人のことってあんまり気にならないのかな?いや、特に責めているとかではなくて、僕とか結構小心者だから待っている人がいると席を立たなければいけない気がしてそわそわしてしまうのよね。

でもこれって面白いよね。ドトールでそんな風景見ないもんね。(ドトールこの前数年ぶりぐらいに行っただけだから、よくしらんけど。)

<h3>年始に一番「ほう」と思ったこと。</h3>

NHKの「100 de 平和」見てて、ヴォルテールの話の時かな。「法も暴力」みたいな話をしてて。

あー、なるほどなーと。恥ずかしながら思いまして。

法を守らないと罰せられるってのはわかるんだけど、逆に法を守っていれば罰せられないんだよね。

成文法主義の場合特にそうなんだろうなって思った。

悪いこと考える人は沢山いるもんで。

罰せることでことを済ますのもどうかと思うし。

ま、結局善き生き方をしようってことです。

さて、戻ります。

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さて、年末だ。

何か書いておこう。

年末29日から年末31日にかけて実家に帰ってきた。福岡から姉家族が30日にやってきて昼食を共にした。

甥っ子姪っ子はそれぞれ進学し、新しい環境で楽しくやっているのかどうかは表情からよくわかる。素直に育っているなーと、母と話す。お兄さんは相変わらず。姉も変わらず。

年末年始だから実家に帰ると言うのはあまり馴染みがないが、それは家族があってこその行動なのかも知れない。たまたま東京に暮らし、実家もそんなに遠くないから行くは行くが。実家が南北の端だったり、新幹線を使わないといけないようなところなら、僕自身は独り身でわざわざ帰る気は起こらないだろう。

今回の帰省の目的は、年末に自分で食べる気もなく作った干し柿を姪っ子が食べたいと言ってくれたので持って行った。

喜んでもらえて嬉しかった。

母及び姉家族と会い、生命エネルギーはここにも保存されているなと思った。僕も姉も母も確実に歳を取っている。子どもたちはどこかエネルギーの使い方を模索し、大人はエネルギーをいかに効率的に使うかを楽しんでいる。
僕自身は自分のエネルギーが減っていると実感する。物事に対する執着心、好奇心の絶対量が減っている。

若さとはエネルギーを持つからアクセルをたくさんふかさなくてもそれなりに進んでくれる事だと思う。もちろんリミッターを振り切った若者は沢山いるだろうし、そこに成長がある。しかし大人になるとアクセル全開とは行かないが、ある程度ふかしていないとエンジンは回ってくれなくなる。僕は今年アクセルを踏んだのか。ブレーキを沢山踏んでいた気がする。来年は今年よりもエンジンを回したい。まだまだ成長したい。

怒涛の一年だった。周りの人に沢山迷惑をかけた。心配してくれる友達が沢山いた。結果的に良い一年だったんだと思うようにしているところが人間の強さなのかなと思う。

年末にかけて自分を省みる機会が増え恥ずべき行為が多かった事を思い反省しつつ目につくのは、強さを持てなくて自ら命を落としたり、犯罪に走ると言ったニュースだ。人のせいにする事に慣れてしまった僕らは自分の罪を受け入れられなくなって奇行に走ると言ったところか。

目にするのは偏った意見ばかりだ。思慮深い人の意見ほど埋もれやすいという側面もあわせてネットの功罪かなとは思う。サイレントマジョリティーが欲している情報をもつであろう専門家は発言しにくくなる社会かもしれない。
対案もなく否定をするなとも思うが、対案があっても断絶してはいけないと言うのが今年一番学んだ事だろうと思う。各々が自分なりの意見を持っている。意見の深さに差があるとしよう。何をもって測っているか?に関してはきっとお互いにはわからない。そもそも相容れない方向から見ているのだから。

簡単に相手の立場に立って考えてみろなんて言えない。そしてこれも難しい事の一つだけど、やはり無視すると言うのが選択肢として一番な時がある。その権利を上手く使うのも生き残るための一つの手段なんだろうと思える気がしてきた。

その結果、自分自身が無視される事もある。もちろん良い気はしない。でもトレードオフだ。

「しょうがない。」

この一見ネガティヴなキーワードをポジティブに使える人間になる事が、一つの成長なんだと思う。そういう年齢になったって事かな。

しかしまぁ。できるならネガティブな発言よりはポジティブに。

来年はそんな一年にしたいものだ。

皆様良いお年を。

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そういう歳なんだろう

悩みや尽きない。されど進め信じる道へ。

周りにはまっすぐに生きている仲間しかいないんじゃないか?ってぐらい、みんな輝いている。ように見える。
とても嬉しく思う。

私42歳、多分平均寿命の半分に差し掛かった頃だろう。
何かを成し遂げたとか、そういったものは見当たらない。でも生きているって感じ。

人は一人で生きていけないし、それでいて一人で生きていかなければならない。頼りつつ頼られつつ、自立しつつ。

自分を客観視する作業を怠ってきたんだなーって思う。ほんと、これっぽっちも。

真面目な性格だから、曲がったことは嫌いだ。でも自分は曲がった、間違ったことをやっていたみたいだ。
間違っていることがわからないことが多い。曲がっていることなんて気づかない。

全部逃げなんだけど。

SNSを眺めていて将来やりたいことを漠然と考えていたんだけど、最近実はやりたいことが一つ見つかった。明確ではないけど、ベクトルはそちらに向いている。
今までは、正直「あれやりたい、これやりたい」で生きてきたし、それでどうにかなった。日本ってすごいね。それで生きてこれたんだもん。

でもそういう時代は終わりに近づいてきている。
僕らが資産を食い潰すわけにはいかない。将来の大人になる子どもたちのためにやれることを。

自分ができることってたかが知れている。
自分しかできないことなんてのも、殆ど無いんじゃないかな。特別な人間ではない。
だから、自分でもできることをしっかりやる。それに尽きる。

日々の生活を一つ一つ整理しながら、一歩一歩階段を上っているところ。段数は多いけど一歩一歩はあまり高くない。
何段飛びもできるほどの能力も無ければ、そういう体力ももはやない。
でも階段を上れるだけの力がまだ残っているし、それは幸せ以外のなんでもない。

悔しさは大事かもしれないけど、人を羨むこと、僻むことは何も生まないって嫌ってほどわかったのがやっとこの歳。

もう12月である。区切りをつけることについて疎かにしてきた。
区切りをつけることを何処かで怖がっていた。そういうことだ。

失敗を恐れてもしょうがない。階段が一段一段低くても躓くときは躓く。それも楽しむ心の余裕をやっと手に入れつつある。
何をいまさらな話だけど、結局そういうこと。

まだまだ甘えて生きているけど、そろそろ少しは方を並べられる人になろう。

そんな気持ちをもってみたら、楽になれるってことも、一つ成長だし、歳をとるのは悪く無い。

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コンテクストとキーワード

例えば「殺す」って言葉を聞いて「えーこっちゃ!」と思う人はまずいないと思う。
「殺したい」についてもやっぱり「えーこっちゃ!」と思う人はそんなにいないだろう。

でも確実にその2つにおいて、人々が受け取る感覚に差がある。

「殺す」という意思をもった経験がある人はそんなにいないだろう。しかし「殺したい」という気持ちを少しでも抱いた経験がある人は一定数いるのではないか?

ちょっと選んだ言葉が極端すぎる気もするんだけど、言葉はそれ自体が持つイメージがまずある。
しかし、文脈の中でその言葉が使われた時に、果たして人々が持つイメージは同じかというと否だ。

言葉は独り歩きする。コンテクストを省いて独り歩きする。
これはとても怖いことで、「好き」「嫌い」だけが独り歩きすることで、人々が憎悪や悪意なりを抱かせる場合が多々ある。

人間の関係性は当然ながら複数でしか成立し得ないわけだが、片方の意見は残念ながらコンテクストとして正しいとは言えず「キーワード」が独り歩きする要因になる。伝言ゲームは不完全だ。
もちろん全文脈を理解しようと言う話ではない。やっぱり「殺す」という行為が良くないということは間違いない。

ただ、当事者でない人たちがそれにおいて、少ないキーワードのみでジャッジを下すことによる世論の形成はとても怖い。
そういう意味でメディアの責任は当然あるし、受け取り手においても試されている時代ではある。

情報を受け取っただけでストレスを受ける時代である。

SNSで気楽に発信、コメントできる今の時代、自分自身思うところがある。
どう考えても無駄なことに対してコメントしてしまうことがあるし、嫌な意見に対して「こいつをどうにか叩きのめしてやりたい」と思ったりしてしまう。

そういう時は、とにかく何も書かないことに決めている。
一つ目は嫌な相手に対して書くことのストレスを避けたい。
二つ目は相手の意見の本当のところは、実はわかっていないのではないか?ってこと。

ネットで意見を書くことは僕はいいことだと思っている。
時に拙い内容で書いてしまうこともあるだろうし、伝わりきらないこともあると思う。
ただ、自分自身においては建設的な意見交換をするという意志のもと書くべきだろう。

その気持を持ちうるぐらいの平和と自由を持っていたいし、それは相手への配慮でありキーワードのみに惑わされない日々の自分自身の思慮だと思う。

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人生リカバリー期間に入る

とても簡単で、もしかしたらそんなこと当たり前じゃないか?ってことかもしれない。

最近一番大事だと思っていること。それは失敗を恐れるなってこと。

僕は今までの人生、とにかく失敗を恐れて生きてきた。とにかく失敗しないように。で、いろいろ大きい失敗をしてしょぼんとする。僕はみんなができることがほんとできない。ちょっとした我慢とかできない。なんでも投げ出す性格だ。継続して、少しずつ成長とか大嫌いだった。だいたいのことは、それぐらい俺でもできるさという態度をとってきた。結局逃げてきただけだった。

そして今、どんどん自分が萎んでいるのがわかる。今考えると、あそこであと少しやっておけばということが山ほどある。小さいことでいうとギターの練習とかほんとそう。だいたいのところでOKを出してしまう。仕事に関しても真面目に絞り出すなんて事は何一つやってこなかった。

という現状が嫌だなって思って、最近一つ試みていることがある。
まずは失敗してみようと。いきなり大きめの失敗をしてもまた凹んでしまう。だから小さい失敗をたくさんしようと思ったわけだ。要はチャレンジしようということだ。

失敗が大事なわけではなくて、失敗を活かすかどうか。それが大事なわけだ。抱えられない失敗をしてもしょうがない。だからリカバリーできる失敗を沢山して、それを一個一個克服していくことにしている。そう、むしろ失敗することを楽しめと。

僕は極端に緊張に弱い。心拍数がどんどん上がっていく。心の体力がない。体の体力もない。どちらも鍛えればいいだけだということを最近気づいた。もっと言うと状況を楽しめということ。スポーツでよく言われることだけど。一度克服できたことは、ある一定期間は自分のものになるはずだ。そこは根拠はなく信じている。

そして、その先には自分を、熱が出るくらい、ぶっ倒れるくらい追い込む事も考えている。頭も体もヒリヒリするぐらいやりきる。あと一歩、そしてあと一歩、そんでもってあと一歩。その気持ちを大事にしたい。

あとはバランス。追い込む時は追い込めば良いが、それだけでは心が病むのはその通りなんだけど、どちらかと言うと「失敗を楽しむ」ためのクリエイティビティがなくなる。これも大事にしたい。

そんな所信表明みたいなことを書いてみた。

こう言う考え方を持ち始めて、周りの人の素晴らしさが今まで以上にわかる。

それも一つ嬉しいことだったりする。

みんなに少しでも追いつきたいと切に願う今日この頃です。

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日々雑感(24/10/2015)

いろんなニュースありますね。
ハロウィーンとやらもあるみたいです。

全然違う世界で生きていると感じますが、すべてがつながっているんだなとも感じます。

軽減税率について

それなによ?って思って少し調べたりしました。
僕の認識では生活必需品と贅沢品で税率変えますよって話みたいです。(あたってますよね?)

軽減税率の是非については、大きく「低所得者層」にとって、有利なのかどうか?って言うのが焦点なんだろうなって思ってます。

ま、それは置いといて。

軽減税率と言っても、実際は全体的に税率が上がるわけだから、結局のところ税負担は増えるってのは当たり前の話だよって部分が何となく話の中で抜けているなっていうのと、全体的に税率が上がった場合に、軽減税率が適応される商品が現状の家計においてどれくらいの値を占めるのか?って言うのを各々が知っているか?って部分が疑問に思います。

そのパーセンテージを考えると、おそらく(確証になるデータをまじまじとみたわけでは無いですが)実は軽減税率を導入しようが、家計負担における税負担はあまり変わらないのではないかな?って思っています。

先に書いた低所得者と高所得者における税負担の恩恵は、もしかしたら高所得者のほうが恩恵受ける気もしますよね。だって言うても消費の中でそんなに贅沢品が占める割合大きくないっしょ。

あとは、導入にあたるコストがどれくらいかかるのか?ってのは気になるところですよね。

なんでもそうですが導入コストってばかにならないし、癒着も出るでしょうしね。

マイナンバーについて

マイナンバーってなによ?って思って少し調べたりしてみました。
僕の認識では、「私の番号」ってことですね。いや、誰も訳せって言ってないって。

国民一人一人を認識するナンバー。
これ、きっと有用に使えばとても良いものだろうと思うんです。性善説をもとに運用されれば。
医療や介護の分野で、適切に運用できるのであれば、今の電子カルテとかを通り越してもっと有用なものになる気もします。

これも軽減税率と一緒で導入コストはかかると思います。ただ、まぁ。これに関しては初期導入費用に対して、運用コストを比較するとまぁ導入したほうが良いような気もしますよね。
あくまでもコスト面。

性善説と書きましたが。たかだか番号なので、悪用の仕方がいろいろあると思うんです。
どうやら初期段階では単純に番号が送られてくるだけみたいですね。どうやって管理するんだろう。
普通に考えると財布に入れるとかになるんだろうけどさ。もっともやっては行けないパターンなんだろうけど。

でも実際免許証とクレジットカードは同じ財布に入っている人が大半だろうし。

でもって、マイナンバー、有効だろうなって思うんだけど、なんか不安はありますよね。
ってことで、よくわからん。

ってことで、いろいろあるけど。

現実って善悪混同なわけで、善意に漬け込む人は沢山いるし、悪意がなくてもそれが悪とみなされる場合は沢山あるし。
そんなん考えなくていい社会はありえんものやろか。

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