月別アーカイブ: 2013年2月

国会中継見ていると、定数は減らすべきかなと思ったりするんだが。

今日はなんとなく仕事中に国会中継つけっぱなしだったんだけど。

知らない人たくさんいるんだなーって毎回思うんだけど、それよりも「世の中のなんの役にたつのかさっぱりわからん」っていう質問をするおばちゃんが結構いるんだなーって思ったのね。

別に国会に笑いがあってもいいけど、首相閣僚含め多分視聴者が全員苦笑するような質問を繰り返しているおばちゃんがいたんだけど。

いきなり安倍ちゃんに「ジョージ・ソロスを御存知ですか?」って。
あんまり知らないっていう安倍ちゃんは置いといても、だからなんだよってね。
円安で10億ドル儲けたって。だからなんなんだよ。そこが論点かよ!

なんかさ、勿論目の前の気になる問題を解決するのはとっても大切ですよ。
でもさ、そんなのわざわざ国会議員にならなくても、家庭とかでやってくれって話。
なんでこんなのが当選するんだろう?って思うんだけど、まーそこに同意する人がたくさんいるんだろうね。
ほんと、いい加減してくれって感じ。

その反面、おおーこの人の質問はしっかりしているって人もいた。
最後の質問の詰めがどうかな?って感じがしたけど、凛とした立ち姿、はっきりした言動、多分ちゃんと論点を間違わないように調査してきた質問。

やっぱさ、最低限それぐらいやってよって思ったね。

国会の質問の順番って、結構その人の政治家としてのレベルが関係するんだろうね。

片山虎之助とか知ってる議員の質問は最後のほうだったしね。
彼らの質問タイムはなんかほんわかしてたな。何質問してたかよく聞いてなかったけど。
議長が冗談いったりしてて。

国会ってそういうところなんだなって感想。

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ズバリ、そのシステムダメでしょう。

実は2通、変なメールが届きました。

「【重要】会員登録完了のお知らせ」
「【重要】お買い上げありがとうございました」

使っているのはgmailです。
最初は「おっと、乗っ取られたか?」って思ったんですが。
アカウントアクティビティを見ても、僕らの家から以外アクセスはない。
うむ。

どこから着ていたメールかというと、とあるショッピングサイト。
調べると、まぁ大きな会社(商社)が出資しているわけです。
多分いわゆる「変なサイト」ではなさげです。

メールの内容には、ばっちり個人情報も書かれていました。
だれがどんな商品を買ったかとかね。
さすがに年齢とかまでは書いていないんだけど、Facebookとかしてたら調べられちゃう内容です。

メールの下の方にお問い合わせがあったので電話しました。


「覚えがないメールが御社から飛んできたよ。」
「個人情報丸見えだよ。」

先方
「メール消しておいてください。」

うーむ。

僕が気になっていること

さて、システムに詳しい詳しくないの話ではないですが。
どう考えてもおかしな流れなわけです。

まず、登録の時点で本人確認がないままにアカウントが作れてしまうこと。
その後そのアカウントで購買ができること。

そして、その購買情報は、どこの誰かも知らないおっさん(39歳)がかってに見れること。

このシステムを見る限り、いくらでもこういう問題が発生すると思うんです。
だから言いました。
「これは回収するべきですよね。こんな問題よく起こりませんか?」

ショッピングサイトの回答

「こんなケースは始めてだ!」
「今のところ回収するつもりはない。」
「教えてくれてありがとう。」

うーん。

ちなみに、僕が「そのシステムって、登録確認ないんですか?」って聞いたら「ありません」ってさ。
ってことは、バグがあってそのメールが流れてきたわけではなくて、そういうシステムってことだ。

それ、バグって言ってもいいんじゃね?

皆様お気をつけください。

まぁね、変なショッピングサイトでもないし、別にその人が買った商品が変なものでもないだろうし(あんまり見てない。)。知られてどうなるって話だけど。

僕はこういったシステムについて明るいわけではないんだけど、ある程度大手が手がけているサイトのシステムがこの程度ってことです。

ちょっと考えればわかるだろっていう問題なんだけど、それを指摘されても放置するような会社もあるってことです。

ちょっと怖い話でした。

みなさま、くれぐれもお買い物の際はお気をつけください。

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対人コミュニケーション不全が起こる理由

コミュニケーションって何の上に成り立っているかって、最低限の相互理解なんですね。
じゃ、何が最低限かって言うと、言語だったり文化だったり。
「つーかー」とか「あうん」とか。まー、実はあんまり説明できないんですが。

日本人にはとても良いコミュニケーションをする資質があったんだろうけど、いつの間にかそういうものは失われてしまったんでしょう。
何が失われたかって、とても簡単で「敬う心」なわけです。

仕事上は指示を出す側と出される側にわかれますが、指示を出す側がいつでも正しいとか、指示を出す側が偉いとか考えている人はどっか行ってください。
偉い偉くないとかが特に最低です。

指示を出される側も然りです。指示を出す側が理解できていないことが多い場合は多々あります。だって専門でやっている人に指示を出すんだから。その時に「バカがなんか言っている」で済ましてはいけません。

お互いが尊重しあって本質以外の所で不快にさせない努力は必要でしょう。
たぶん「つーかー」とか「あうん」は、その上に成り立っている筈です。
(本質の部分は時に不快にさせることがあってもしょうがないとは思います。)

傍若無人に振る舞う姿、支離滅裂な言動。人を不快にさせる要因は多種多様なわけですが。唯一つお互いが分かり合えるものがあります。
「挨拶」「感謝の言葉」「謝罪」。これをなるべく「目を見て話す」に近い状況ですること。少なくともそれに近づける努力をすることで、人に伝わりやすくなります。

間違いが有ることを怒ってもしょうがないですよ。誰だって間違う。
でもそこをリカバリーすること、もっと言うとリカバリーしようと努力する姿勢が一番大切なわけです。

さて、その努力ができない人が増えているっていうのが大きな問題なんですよね。
それって何が理由なんだろう?って考えます。答えはまだ出てきていませんが、ひとつは教育、しつけが果たす役割(学校だけじゃないですよ。)は大きいと考えます。

グローバル化や社会のシステム化がもたらした、もたらす恩恵はきっと沢山あるんだろうけど。失われている部分は多くて、人に気持ち伝える能力の劣化、受け入れる能力の劣化は最たる所だと思います。

新しいものを受け入れつつも大切なモノはちゃんと伝え残す。それが正しい進化なわけです。

誰だって人を不快にさせたいわけではないっていう性善説を信じています。
自分の中でもちゃんとできていないことを書いています。

良い社会を作っていくために、真剣に考えないといけない問題です。

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帚木 蓬生「水神」読了。

えらく長い時間かけて読んでしまった。
この本を買ったのが2012年の8月。
約半年かけて読んだわけだけど。

決してつまらなかったとかではなくて、むしろじっくり読みたかったから。

結果「ぐっ」と来た良い小説だった。

この本との出会い

去年の夏、素敵な人生の先輩と知り合いになった。
一緒に杉並区の下井草で開催された「灯りまつり」を手伝っていた方で、言い方は悪いけど自称「ちょっとダメな大人」。
話を聞いていると、おもわず頷いてしまう、と言うか僕と似ている部分があって、思わず「あー、こういう人生の先輩がいるってことは、俺も存在価値があるんだなー。」とか思ったりした。

その方と意気投合し、僕がまちづくりに従事していると話したら、また別の方を紹介頂いた。
その方含め、三人で新宿のライオンに集まり、あーでもねー、こーでもねーって話をさせてもらった。
僕はその場で「学生時代は九州だった。」「公園の設計をやっていた」「もっと街で働きたい」って話をしていたんだけど、その時に勧められたのがこの本。「水神(上)

なぜかとにかく読め!って話になったんだけど、内容を聞いてみるとびっくり。

なぜビックリかと言うと、この物語の舞台となった筑後川流水域はなんと僕の卒論テーマだった。

僕の知っている筑後川

九州の人以外は、もしかしたらあまり馴染みのない川かもしれない筑後川。もしかしたら九州でも長崎とか鹿児島の人にはピンと来ないかも。
この物語の背景になった話や、川そのものの歴史的な話はこことかここを読んでもらうとして。ま、大きい川で、見るとちょっとうっとりくる。

僕が学生時代に住んでいた福岡市からは距離にして40キロぐらいかな。いわゆる筑後平野はこの川の東側に形成されている。
農学部だった僕は、4年生の夏休みに書きたくもない卒論(誰がそのお題に決めたかも分からない卒論)を作成するために、なんか知らないけど毎週のように筑後川の支流に水を汲みに行っていた。
助手と、クラスの女の子と僕。なんとなく三人が三人、仲が悪かったような。(今考えるとなぜかはわからんけど。)
浮かれる気分なんてこれっぽっちもなく、ただクーラーの効かないバンのクッションの効かない後部座席で寝ることだけに注力する時間を過ごしていた。
支流に到着すると、ただただロープのついたバケツを川に投げ込み、ボトルにたくさんの水を汲んで研究室に帰る。
そのためだけに何時間もかけてバンに揺られる。

結構な回数を繰り返しているうちに、最初はただつまらなかったこの水汲みにも少しだけ愛着が湧いたことを覚えている。
支流だから結構山の中に入ったりして、いつも決められたポイントで水を汲むんだけど、景色を見慣れてくると少ししっくり来るというか。その時深く考えたわけでは全然ないけど「あー、なんか歴史があるんだろうな、この川。」って思ったことを覚えている。当然農村なわけで、その景色に心が落ち着いたのを覚えている。
水を汲むのは夏の間だけだったので、その後の卒論は何書いたかも覚えていないし、なんか適当に終わったんだけど。

その後社会人になってから、なぜか筑後川の周辺に遊びに行くことが増えた。
知り合いができたのもあるし、よく熊本の小国に行っていたので、支流に限らず源流に向かって筑後川を眺めること多くなった。
車の窓を開けて好きな音楽を聞きながら川沿いを走る。そういう時間がとても好きだった。
学生の時より筑後川が好きになっていた。

多分、今考えると筑後川ってかっこ良かったんだと思う。単純に大きいっていう意味もあるけど。
何か凄みを感じるその姿は、実は山に向かうにつれて静かな流れを見せて。
山に入れば入るほど神秘的だった。

故郷でもなんでもないけど、筑後川は僕にとっての川の代名詞になった。

ちょっとだけ小説について

おっと、結局小説についてはあまり書いていないけど。
この小説、一応主人公がいるんだけど、3者の視点から描かれている。
それぞれ立場の違う「庄屋、百姓、侍」が、自分たちの信じる事のために自分の役割を全うする。
それぞれが信じあって、それぞれが人のために尽くす。

それが大きな、時に危険を伴う自然相手に繰り広げられる話。

今の日本人にとって進むべき道へのヒントが詰まっている内容だと思う。

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物語り風に考ると良いよ

ちょっと大事なんじゃないかな?って思った話。

先日インプロの演劇について書いたんだけど、その事が頭の中にちょっと残っていて、なんであれがいいと思ったのか?を考えていたんだけど。

例えばプレゼンテーションする場面であるとか。まプレゼンじゃなくても良い、息子と過ごす時でも良い。

目の前の事についての説明って大抵面白くないし、意味が伝わりづらかったりするわけで、そういう時って「まずはこれってすっげ楽しいことにつながるんだよね」って事を説明した方が良いわけで。

で、その楽しいことを語るのはできても、目の前の事をちゃんとつなげて話せるかって話。結局物語を作れるかってこと。
物語をつくることで、良いことばかりじゃなく懸念される事柄も同時に思いつく。
そうすると、当然打開策を考えるわけで。
そこらへんまで考えた内容だと、やっと人に伝わるし人が乗ってくる。

物語を時間をかけて考えることも大事なんだけど、すぐに考えられる能力って大事なんじゃないかな。それってやっぱり鍛えるしかなくて、常々考えていることが重要なわけ。

得意不得意はあるかもしれないけど、演劇を通して学ぶ(鍛える?身につけるる?)ってのも良いかも。

って話。

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最近のこと、雑感。

遠隔操作について

正直、話しについていけていないのと、興味があまりない。
興味がある点があるとすれな、友人の元同級生ってことくらいか。

一個だけ気になったのは、逮捕されたすぐあとから「こういう奴はだいたいこういう家庭教育で、こういう点がダメ。」みたいなことをささっと掲載するメディアが最悪だなーって。
今時そんな簡単にプロファイリングできるのかね?
まっとうに生きている(と思われる)人だって、そういう家庭環境の子もいるだろうし。
原因をそんな簡単なところに落とし込まないほうが良い。

柔道について

体罰ってなんだよって話かもね。
僕の通っていた高校では竹刀を持った数学教師がいた。
さすがに狂っていると思ったし、そんなんで数学良くならんよって思ったけど。
正直よくわからないな。
体罰はないほうがいいのかもしれないってぐらい。

レスリングについて

そもそもオリンピックってそんなにみんな好きなのかな?
僕は正直あまり好きではないです。
レスリングが外されようが、あまり世の中に影響無いんじゃないかな。

ま、と言いつつも。
実際レスリングを頑張っている人にとっては大問題でしょう。
オリンピックがなくなるとそれはそれでやる気も無くなるでしょう。
で、レスリングやる人は減るでしょう。

ところで、レスリングがなくなると何がどう困るんでしょうね?
あ、なくなっていいぜ!っていうスタンスではありません。純粋にどんな影響があるんだろう?って話。

隕石について

「恐竜も隕石で絶滅しました」なんてニュースとかで軽く話しているのを聞くと怖いですね。
ついついその瞬間を想像したんですが、その瞬間は家族で過ごしていたいなって思いました。

2月も半分が過ぎました。

ちょっと早すぎですね。
色んな物が軌道に乗ってきた証拠だと思うんだけど。
いろいろ忙しいけど、それはそれで良い事だと思っています。

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同い年ということ

最近、フェイスブックのおかげで新しい方とのつながり方もスムーズになったんですが、やはり大学で作られた、そもそも名前が「Facebook」って言うぐらいのツール、昔の友人知人たちとつながることが多いなって気がしています。

で、その中でも結構長い間繋がっていなかったのに、つい最近まで合っていたかのように交流できるっていうのは素晴らしいなって思っています。

昨日、ちょっとしたことで自己嫌悪に陥っていたんだけど、何気なしにTumblr見て適当にリブログしてた内容に対して、知人からメッセージが来てたんです。

内容はまぁ個人的な部分もあるし、特にみんなに読んでほしい!って内容ではないんです。で、僕自身それを読んだからって「おし、これで解決した!」って内容でもなんでもないんだけど、急になんか救われた気がしたんですね。理由はまったくもってわからないんです。
とりあえずありがとうのメッセージだけ送ったんだけど、その後急になんか嬉しくなってついつい走ったりしてみました。

で、まぁそんなこんなで今進めているプロジェクトがあるんだけど、それを一緒に進めている友人にメッセージ出して「了解!」って一言帰ってきたんだけど、なんかそれだけで嬉しくて。

両方共日本の義務教育における同じ学年。同い年。
ともに尊敬できる人間性を有している。もちろんこの二人以外にも助けられている人はたくさんいる。四国で泳いでいる人もいれば、中国で悠々自適に旅なんかしてる奴もいれば、江戸川区で介護の仕事を楽しんでいる奴もいる。まぁいろいろいる。
なんかちょっとした時にやっぱり同じ時代と言うか、同じ空気というか。
そういうものを多言した仲間の意見って欲しくなったりする。
いや、実際は別に年齢が一。二歳違うとかでそんなに変わることはないと思うだけどね。
でも、なんかあるんだなーと。
そういうのを最近感じています。

何でしょうね、日本人特有なのかな。僕特有なのかな。

ま、そんなこんなで、ちょっと嬉しい事があったってだけです。
そういうことが朝からあると、寝てないけど調子も上々ってことをお伝えしたくてキーボードを叩きました。

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いおぎみんなの学校 「塩水大作戦」

昨日はいおぎみんなの学校でやっているサイエンス実験室。
昨日は来年小学生のお子さんも参加して頂きました。

他のサイエンス実験室レポートはこちら

当初は「電池を作る」だったのですが、もしかしたらちょっとむずかしいかな?と思いました。簡単に言うと成功確率が低いと言うか。
難しいんです。
なので急遽「塩水大作戦」を行うことにしました。
内容は「ゆで卵って水に浮く?浮かない?」

準備するもの

  • ビーカー
  • ゆでたまご
  • 計り

ゆでたまご浮くかな?

集まった生徒たちにまずは質問してみました。
「ゆでたまご、水に浮くと思う人?」
「はーい」「いや、浮かないって」「浮かないかなー。」・・・・。

まー、いろんな意見がでます。勝手に出させます。子どもたちは自分たちで勝手に浮く理由とか浮かない理由とかを言い始めます。
とにかく勝手に言わせます。

とは言いつつ時間もあるので、一定時間がたったら、最終ジャッジメントを迫ります。
「じゃー、浮く。」(じゃーってなんだよ、おい。)←なんて言いません。

それぞれ「浮く」と答えた子どもたちには真水の入ったビーカー、浮かないといった子どもたちには塩水の入ったビーカーを渡します。

せーので入れてみよう!ってことで入れてみますが、それぞれ自分の答えとは反対の結果にズッコケてくれました。
(昨日の生徒はみんなズッコケ方が上手でした。)
僕も一緒にとりあえずズッコケてみつつ、答えをざくっとバラします。

こっちは塩水だよー。こっちは真水だよ。

再度ズッコケてくれましたが、その時は大人として無視です。

とりあえず塩水のお話するよーってことでスタート!この時みんなの顔は笑顔です。

塩水ってどうやってしらべるの?

ここでまずは皆に聞いてみます。

どっやったら塩水ってわかるの?

子どもたちはあーでもないこーでもないことをどんどん言い出します。
「知らねーよー」とか。
そういう時は「しらねーよーじゃねーよー」と言ってあげます。

ま、とは言いつつも子どもたちも一生懸命考え出します。
「卵浮いたら塩水じゃね?」「舐めてみれば良いじゃん。」「匂いじゃね?」「ほら泡がたってる方だって。」「量が多いほうじゃない?」
ふむふむ。おっさん(僕ね)はふふーんって言いながら聞くだけです。

この時子どもたちには思ったことは全部模造紙に書いてもらいます。
途中質問してくる子供もいるんですが、簡単には答えません。
「紙に書いといてー。」で済ませます。

さて、いろいろ答えが出たかな?って思って見てみても、実はあまり出ません。
だって塩水か真水かって、そんなに見た目も変わりませんしね。

でも良いんです。いろいろ考えてもらったらok。
それぞれ発表してもらいます。

ちょっと別の実験

ここでちょっとだけ面白い実験をします。
塩水を石鹸水にいれてみます。そしたらある変化が起こります。
わかんない人は試してみてください

子どもたちはたったこれだけの事で、大騒ぎ。

次は俺!次は俺!の大合唱です。
やりたいだけやらせます。そしたら飽きますw。

あ、ちょっと話それますが。
僕が気をつけていることとして、混ぜるとか卵を入れるとか、作業は極力子どもたちにさせます。

当たり前だけど、水に塩が混ざっているから塩水なんだよって事をわかってもらいつつ、塩が反応するんだよってことを適当に、感覚的に感じてもらいます。

塩水を調べる方法は色々あるんだってことに気づくまで行ったら最高ですが、そこまでいかなくてもokです。

卵が浮くから塩水なの??

さて、最初の問題に戻って。
塩水を調べるのに「卵が浮けば塩水だ!」って話がありました。
先生、ちょっと疑問に感じたんで聞いてみます。

「塩水って何?」
「水に塩が入ったら塩水。」
案外まっとうな答えが帰って来ました。

「じゃさ、塩水作ってゆで卵浮くのか試してみようよ!」
ここで塩を入れる係とか、卵を入れてみるかかりとか、塩を溶かす係とか決めます。
じゃんけんで決めます。

僕はもう一回質問します。
「塩どんだけ入れたら塩水なのかな?」
「しょっぱかったらー。」
なるほど。重要です、その感性。

「じゃ、少しだけ塩いれた水は塩水じゃないの?」
「わからーん。」
正直ですね。子供。面倒な質問だと思ったんでしょうね。

ってことで塩水を作っていきます。
その前にまずは塩の重さ当てクイズをしてみます。
塩(開封済み)を持ってもらい、どれくらいの重さかを当てるクイズです。
みんなあーだこーだ言っています。
僕も先生として「これは270グラムかな」なんて言いながらクイズに参加してみたんですが、一番外れていました。

塩の全体量を体感してもらい、次に「どれくらいの量を水に入れるか?」を話し合ってもらいました。
別に根拠は要らないんだけど、なんとなくみんなで話し合ってもらいました。
水の量が400gだったので、いきなり「140g!」なんて言わないようには操作をしましたが。
(言わせても良かったかな?って後で思いますが。)

で、結局最初に10g、その後22g。
ゆで卵はまだ浮きません。
水を舐めてもらいます。
「しょっぱくない」って言ってます。

次に8g追加しました。
ゆで卵を入れてみます。

浮きました。
水を舐めてみて「うーん。」

って所でお時間。

最後に立って「ありがとうございました。」で終了。
それぞれ楽しんでもらえたみたいでした。

ただ、最後に「電池つくらなかったねー」と言われてしまいましたが。。。

そして課題も残る。

さて、今回の塩水の実験。
質量の話であるとか、科学反応の話が内包されています。
毎回難しいですが、悩むのはどこまで教えるべきか。
いや、どこまで教えられるか?の方が正しいかな。

今のところ僕の考えでは「なんでそうなるの?」って言葉が出てくるようにするのが第一なのかな?って思っています。

サイエンス実験室、次回は一応「空気のパワーを感じよう」(今回のように急に内容を変えることもあります。)

2月のスケジュール

  • 2月20日 サイエンス実験室「空気のパワーを感じよう!」
  • 2月27日 サイエンス実験室「温度計をつくってみよう!」

いおぎみんなの学校 サイエンス実験室
毎週水曜日 16時~17時まで
小学校4年生ぐらいまでを対象に、みんなで一緒にやる面白い実験を通して「科学」に興味を持ってもらうとともに、「考える力」と「一緒にやる楽しさ」そして「礼儀」を感じてもらえるようなプログラムで開催しています。
いおぎみんなの学校

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即興実験学校の「冬の劇場公演」を見てきた

友人がインプロ劇をやっているのは知ったんだけど、見る機会が無かったんだけど。
今回見に行ってきました。
即興実験学校(http://improlabo.org/)の冬の劇場公演。

インプロビゼーション=即興って意味なのかな?

音楽的には、勝手な想像だけどJAZZとかはある程度即興だろうし、ロックミュージシャンでもインプロっぽい人たちはたくさんいる。福岡の「」とかはむっちゃインプロでしょう。ま、音楽ではある程度馴染みがある。

演劇のインプロの前に、そもそも演劇自体にあまり馴染みが無いから、その違いはわからない。

ま、そんな前提で見に行ったんだけど。

結論から言うと、「おもしろかった」の一言。

この面白いは「すべてのインプロが面白い」って意味ではない。
特に今回の劇が面白かったってこと。

明らかに演者にレベルの差(経験値的?演じる力?)があったように見受けられた。
一人ひとりに差があるんだけど、それぞれが「あー、下手くそだな」とか言う感じは受けない。
いやむしろ、その差があるからこそ、とてもおもしろい劇になっているところが、こちらが嬉しくなるくらいな感じだった。

もらった即興実験学校のチラシに、「がんばらない」「ムリしない」みたいなことが書いてあったんだけど。
あー、なるほど。きばってないなって感じの劇。

インプロだから、当然それぞれのセリフはその場で考えているんだろう。
いきなりそんなフリする?みたいな場面もあったし、ああ、さっきと辻褄合わないじゃん!ってところもあった。
で、それが別に客にとってマイナスに働かないところがとても良いと思ったわけ。

もちろん何回も練習して、ひとつも間違いなく、完璧な演技、完璧な演出の上になりたつ劇もキット面白いだろうけど、僕にとって今回のインプロの劇は正直「ハマった」。

失敗が必要なステージなのか?

なんて言うんだろう。
ある意味ステージに立つって言うのは「矢面にたつ」事に等しくて。
失敗が許されないところってのが常識なんだろうけど。

今回の劇に関してはむしろそこが許される、そこがあって然りってところが面白い理由なんだと思った。

もちろん、演者みんながそれで良いと思っているわけではないでしょう。
もっと高みに登りたい人もいるだろうし。
実際、友人含めて、数人は「あー、感情が入っていてグッと来るわ-。」って思ったし。

さて、だからといって失敗がいいわけではないんだろう。いや、ここでは失敗と書いたけど、それも演出として見るのがいいのかな?

人がとっさに物事を考えるときに、頭の回路を高速回転させて出してしまった内容に間違いはないって感じ。

間違いがない世界を想像力ひとつでどんどん作り出していく世界。
実生活でとても足りていない部分が凝縮されている気がした。

自分もやってみたいって気持ちになる。

多分僕だけではないだろう。
見に来ていた人は「あー、俺なら絶対次にこういう動きする!(こういうセリフ言う!)」って思いながら見ていたに違いない。

そう、絶対にそれぞれの想像力が膨らむ公演だったと思う。

じゃ、いざステージに立つとなると、そこはまたなんか知らないハードルがあるんだろうな。

もらったチラシに書いてあった「必要なのは思い切って飛び込むほんのちょっとの勇気だけ」ってフレーズ。
これは実は今回の演劇だけではなくて、いろんなことに対して言えること。

今回の公演は、きっと「ちょっと飛び込んでみようかな」って思わせるには十分だった。

今度飛び込んでみる。

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「Formal×Informal Learning ワークショップで何ができるNOか?」に参加してきた。

Formal×Informal Learning
ワークショップで何ができるNOか?

「アート・多文化・伝統・身体・メディアを活用する表現と協同の創発的な学びの場の開発」
総括・公開コロキウム

こんな募集要項募集要項裏

10日、11日と、上記のイベントに参加してきた。
真剣にワークショップなり、アートの中でのワークショップをやっている人たちの話を聞いてみたくて参加してきた。

登壇者はそれぞれが楽しい話を聞かせてくれた。もちろんよくわかんない話をする人もいた。
(よくわかんないと言うよりは、時間が長くて眠くなるタイミングがあったからかもしれないけど。座学って辛いね。)

学びの場におけるワークショップってお題があったから、当然ながら学校教育とワークショップという視点の話が多かった。
学校教育=Formal、それ以外の学びの場=Informalって感じ。

以下ははイベント全体を受けて、特に記述しない限り、どの人が話してたってことではなくて僕の感想。

ワークショップのあり方

学校教育の限界、しいては現在の社会システムの限界みたいな話をワークショップでどうにかなる?みたいな内容がメインだだったんだけど、一番おもしろかったのは、東大の准教授、中原さんの「企業におけるワークショップ疲れ」の話。ブログはこちら
ま、表向きワークショップに批判的に見えるけど、実際は前向きな話だった。
僕なりにまとめると、ワークショップのアーリーアダプターにとっては、ワークショップって聞いただけで辟易するよ。なんでって、やること決まってるし。
ってことで、今後ワークショップをもう一個新しいものにバージョンアップさせる、そういう前向きな姿勢で頑張りましょみたいな内容だった。

実際、いろんな会合で猫も杓子もワークショップ状態なんだけど、その中身は薄っぺらというか。
ワークショップインフレを感じることが多々あるのが現状。

僕なりに大事なのは、もちろんポストイットに書いて、KJ法でとかもあるかもしれないけど、目的に対して何をするか?を周到に準備する、そして徹底的にシュミレーションする。
ここをおざなりにしている、甘く見ている人が多いのが残念。
それでいて、本番は想定からずれていっても対応する能力があるファシリテーターが進めることが重要。

それは次に話す「専門家」の話につながるんだけど、ま、それはここでは置いといて。
ワークショップって言葉を使うことが悪いんじゃないし、話し合いは大事なんだけど、結局色んな意味で「成果を出す」ワークショップを作り出していかないといけないわけ。
ま、じゃその「成果」って何?って話にはなるんだろうけどそれは割愛。
少なくとも今後「1回きり」のワークショップってのはありえないんじゃないかな?ってのが僕が思ったこと。

必要なのは「専門家」としての人材

今回のコロキウム(実はこの言葉初めて聞いた。)でよく聞いた言葉が「オルタナティブ(alternative)」。
辞書で調べるといくつか意味があるけど、今回の使われ方としては「代替えの」ってのがしっくり来るのかな?

学校教育が担ってきたものでは足りないんだけど、そこでアート的な事、すなわち「一般的にマイノリティと思われている。(実際マイノリティ?)」ことを学校で教えるのは現在の社会システムの観点から矛盾するから、どっか外で学んだほうがいいよ!(どっか外で学ぶしかないんじゃね?)みたいな話だった。
学校に対するどっかがオルタナティブって話ね。

一般的にマイノリティとされることが教育には大事って話なんだろうけど、ここでそれを教える人、ないしはそれを教えることを開催する人は「アマチュア」であり「専門家」である必要があるのかなと。
アマチュアがもつ「型にはまらなさ」が重要って話はわかりやすいんだろうけど、ここで言う「専門家」ってのが重要で、その人は「物事を俯瞰的して、それを全体に反映させること」の専門家であるということ。
それぞれの専門家はいるが、全体を俯瞰する能力っていうのは思ったより皆が持てない能力なわけで。
もしかしたら、それこそ「学校教育の弊害」なのかもしれないけど。(根拠なし!)。

内容が伴っているかは別として、自分の意見を一生懸命いうことが出来る人はなんとなく育ったんだろうけど。違ったベクトルを一つの力にしていく能力を持った人はなかなかいない。
そういう人を生み出すのが今後のワークショップ界にとって重要なことなんだと思うし、それを体系的にやろうとしているのが、今の「ワークショップを学ぶ」動きなんだってのは今回わかった。

自分を振り返ってみる、今後を考えてみる

僕が最初に関わったワークショップってのは、公園の設計なんだけど。
実は今までやってきたワークショップの中で一番刺激的だったのはこれ

足掛け5年、計20回のワークショップで公園を作り上げたのはやっぱり楽しかった。
苦労も当然あったんだけど、プロセスとしても良かったし、結果地域に愛される公園ができたこと=「結果」が伴ったのが嬉しかったんだと思う。

もちろんこの規模のワークショップをするには費用の問題などあるだろうけど、規模の話ではない。
やはり結果を導くワークショップがやって行きたいってのが強く思ったこと。アマチュアが持っている「当たり前」をもっと反映させたものを作り出したい。

反社会的でありたいわけではないけど、社会がもっと人が自由にできる所であってしかるべきだと思うし、それに向けてワークショップってやっぱり力を持っていると思っている。

じゃ何するか?ってことなんだけど。やっぱりファシリテーターとして頑張って行きたいし、もっと素敵なワークショップを開催して行きたい。

よくファシリテーターは意見を持ったらダメとかいう人いるけど、それは絶対にありえない。
たくさんのベクトルから時には意見を切り捨ててでも一方向に進めるべき時があると思っている。(毎回それをやれって話しではないけど。)
だから、それに対しての準備をいつも考えながら過ごすべきかなと。

ま、修道者的な話になったけど、好きでやっている人は実は何の鍛錬でもないんだよね。
こうやって考えをたまにまとめてみる機会を与えてくれたんで、今回のイベントには感謝。

登壇者のみなさま、そして参加された皆様、ありがとうございました。
(誰が読むんだろうって話はあるけど。)

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